仏教とは何だろう。仏教とは一言で言えば、死の解決が教えられている教えだと思います。
死の解決とは何か。それは人間は生まれた限りには、いつか必ず死んでゆかなければならない。では、死んだらどうなるか。それが分からない。死んだら何も残らないように感じるし、魂が残るようにも感じる。仏教の教えでは、自分の肉体に宿る業が残ると教えられる。
では、その業とは何か。自分の中で実感しない。本当に業が残るのか。その業の存在を自分で感じられるようになること。それが死の解決なのではないかと思います。
誰しも死んでも命がありますように、と願うように、いつまでも続く自分というものがあって欲しいと思うもの。でも、その業の存在が自分で感じることができない。それどころか、自分の存在自体、自分で感じることができないものが私たち。だから、他人から自分の存在を認識してもらわなければ、自分で自分がここに存在しているか感じることができないものが私たちなのです。
では、どうしたら自分の存在を感じることができるのでしょうか。仏教では、それは仏教の教えに従って善を実践してゆくことによって、自分の存在を感じられるようになるのだと教えられる。
ここで善とは何かと言えば、一言で言えば、存在価値を高くしてゆくもの。具体的には、整理をすること。そして、開けたら閉める、出したらしまう、使ったら片付ける、などの反位にあるものを定位に戻すことが善なのです。そうやって、善を実践してゆくと何が見えるのか。それは今使っているものは少なく、ほとんどのものはまた使うからと出してあるもの。そして、いつか使うと思っているから、出したものをその都度片付けることは面倒くさいことであり、なかなかできないものだということが知らされます。
それはすでに悪い習慣が身についてしまっているからであり、どんなに変えたいと思っていても、一度染み付いてしまったものを変えるのはなかなかできないものだと知らされます。
この染み付いてしまった悪い習慣が業であり、仏教の教えに従って変えようとすればするほど、なかなか変わらないものだと知らされる。
このように自分に染み付いた悪い習慣が知らされることが自分の存在を自分で感じることであり、死の解決になるのです。
つまり、死の解決とは自分の業の存在を自分で感じることであり、それはいい自分ではなく、なかなか教えの通りにはならない悪い習慣が染み付いた自分が知らされるのです。
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