私たちはとのような存在か。それは他人から自分の存在を見てもらうことによって自分はここに存在しているんだと感じている存在。自分で自分を感じることはできないので、他人から自分はどう見られているかを通して自分はここに存在しているんだと感じている。だから、私たちは他人から声をかけられると安心するし、嬉しい。他人から注目されると頑張ろうと思う。常に他人から自分のことを見てもらいたいと思っている。ところが、自分のことを見てもらいたいと思って、自分を飾り、必要以上によく見せようとする他人から注目されても、それは表面的に自分を見てもらっているだけで本当の自分を見てもらっているような感じがしなくて、心が渇く。これが名聞であり、餓鬼道。餓鬼道とは自分の存在を見てもらうとして、一生懸命自分を飾り、頑張り、結局、見てもらっても、心は渇き、もっともっと見てもらおうとして必死になる世界。私たちは結局のところ、自分のことを見てもらいたいだけの存在でしかないように感じる。自分のことを見てもらいたくて、一生懸命情報を集め、価値を手にし、それをまわりの人にアピールして、自分はこんなにも頑張っているんだよと知ってもらい、自分の存在を認めてもらおうとしている。でも、本当は認めてもらいたいのは飾らない自分。ねえねえ、自分の話を聞いてと言って、こっちの方を見てくれたらそれで解決する。幸せとは何だろうか。幸せとは自分の存在を認めてもらうこと。ただそれだけの為に私たちは生きている。色々か人に認めてもらわなくてもいい。自分のそばにいる人に自分を認めてもらいたい。ただそれだけで私たちの心は満たされる。その為にはどうしたらいいのか。私たちは他人から認められたくて、価値のあるものを手に入れようとしている。でも、本当は他人から認めてもらいたいならば、まず自分が他人のことを認めてあげたらいいだけ。他人は自分のことを認めてくれる相手の所に集まってくる。例えば、話を聞いてくれる相手にはただそれだけで近づきたいと思うものだ。自分が他人から認めてもらいたいならば、まず自分が他人のことを認める。そうすることによって、認めた相手は自分の所に近付いてきて、自分のことを認めてくれるようになる。
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