では、私たちが日々心で思っていることは、どのようにして生み出されているのでしょうか。これを教えられた教えが五蘊です。五蘊とは、色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊の五つです。
色蘊とは、自分の生きている環境にあるものを認識したものの集まりです。私たちは、「ここに物がある」「あそこに人がいる」「音が鳴っている」というように、自分の身の周りで起きている事実を認識します。認識したものの一つ一つの集まりを色蘊と言います。私たちは、外のものに触れることによって、様々なことを感じ、色々なことを思います。もちろん、これは物があっても感じますが、あったものが無くなっても感じます。例えば、津波によって家を流された人たちは、家があった場所へ行くと、「もし津波がこなかったら、今もここに家があったはずなのに」と思って、悲しみます。この場合、実際には家は無くなっているのですが、その人の心の中では、まだ家が存在している事になっています。そのため、現実に起きたことがどうしても受け入れることが出来ないのです。このように、自分の思いと現実が食い違った時に、現実を否定して自分の思いを捨てることが出来ない心を執着と言います。苦しみは現実を受け入れられない事によって生まれます。現実を受け入れることができれば、苦しみは消えます。では、なぜ私たちは執着を捨てて現実を受け入れることができないのでしょうか。それは、私たちが執着しているものは、まるで自分の分身のように見ているからです。例えば、家を失って苦しんでいる人は、その人にとって家は自分の人生そのものであったのでしょう。だから、家を失ってしまったら、自分の存在そのものも消えてしまうように感じるのです。その為に家を失ったことを認めることができないのです。執着を捨てて現実を受け入れるためには、「失ったものと自分は違うものである」ということをその人自身が理解しなければなりません。もちろん、冷静に考えたら、自分は家じゃないということは当たり前のことです。でも、頭では理解していても、心ではそのことがまるで分かっていないのです。だから、執着していた家が無くなると、「あの家と同じように、自分もこの世界から見捨てられてしまうのではないか」と思って不安になり、苦しむのです。このことを理解する為には、まず「見捨てられるのではないか」という不安を取り除いてあげる必要があります。つまり、執着によって苦しんでいる人に対して、「私はあなたのことをどんなことがあっても見捨てません」と心を支えてゆく必要があるのです。「自分はこの人からどんなことがあっても見捨てられることはない」と安心することが、執着を捨てて現実を受け入れていく為に大事なことになるのです。
次に受蘊とは、目で見たもの、耳で聞いたもの、舌で味わったもの、肌で感じたものを通して様々な感情を起こすことを言います。おいしいとか、まずいとか、これは好きだとか、嫌いだとか、というような感情を起こすことを受蘊と言います。
次に想蘊です。とは、外界の事象に触れて起こした感情に対して、心が反応して何かを思ったり、行動しようとしたりすることです。
次に行蘊とは、心で思ったことを実際に行動に移すことを言います。
そして、最後の識蘊とは、今までの四つの行いが業種子となって阿頼耶識に収まることを言います。
この五蘊を簡単に表わすなら、視界の中に蚊が入る。これが色蘊。そして、蚊と認識して、感情的に嫌だと感じる。これが受蘊。そして、蚊を殺そうと思う。これが想蘊。そして、行動に移す。これが行蘊です。そして、一連の心の動きと行動が阿頼耶識の中に収まることが識蘊です。このようにして阿頼耶識の中に収まった業種子によって、私たちの業が生み出されているのです。
ですから、業を変える為には、具体的に大きく二つのことに心がける必要があります。まず、一つ目は、環境を変える。自分の環境を変えれば視界の中に飛び込んでくるものが変わるので、それを認識して様々な感情を起こすことも無くなります。そして、もう一つは、自分の受け止め方を変える。同じ物を見ても、人によって受け止め方はまちまちです。それを喜びとして受け止める人もいれば、苦しみとして受け止める人もいます。そして、苦しみとして受け止める人の多くは、その対象に対して、間違って認識している為に苦しむのです。だから、仏教を聞くことによって、間違った認識を正すことによって、受け止め方も変わるので、それによって、起きてくる感情も変わり、阿頼耶識に収まる業種子も変わるのです。
私たちは、業を変える為の正しい理解がない為に、思わないようにしたり、思っても行動に移さないようにしたりします。しかし、思わないようにしようとするのは、すでに思ってしまった感情を理性で抑えているだけなので、どんなに抑えても、起こした感情は業種子となって阿頼耶識に収まりますし、どんなに行動に移さないように我慢しても、阿頼耶識に収まった業種子が業力となって、いつか我慢できなくなって行動に現れてしまうのです。
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