業とは何か。業とは相手と自分がセットになっている。例えば、相手が責めると自分が逃げたとしたら、責めると逃げるがセットになって、阿頼耶識に収まり、それが業となる。
この時、自分が何か現実が嫌になり、逃げたくなったならば、その人の心の世界では、まわりの人たちが自分を責めているように感じる。
いや、誰もまわりに人がいなくても、誰かが自分を責めているように感じて不安になる。
これが業。責めると逃げるがセットだから、逃げたくなると責められているように感じる。
これに対して、自分が何かのことで相手を責めたくなると、まわりの人たちが自分を避けて、逃げているように感じる。
実際はまわりの人たちは自分から逃げていなくても、自分の目にはまわりの人たちが自分から逃げているように見える。
ちょうど青色の眼鏡をかけると世界が青色に見えるように、逃げているという眼鏡で世界を見たならば、まわりの人たちが自分を避けて逃げているように見える。
そして、自分は逃げている人を見ると責めたくなる。
これが業力。それは逃げると責めるはセットだから、逃げている人を見ると自分の心から責めるという心が吹き上がる。
これはどんなに頭で責めては駄目だと思っていたとしても、止めることができないどうしようもない力で責める心が吹き上がる。これが業力。
そして、この業力は無意識のうちに責めたら逃げる人、逃げたら責める人を自分のまわりに集めてゆく。
集めるというよりも、自分が責める、逃げるという業を持っていると、自然と自分が責めている時は逃げたくなるし、逃げている時は責めたくなる。
人は接する人によって心が違うというが、それは一人一人持っている業が違うから、だから、まわりの人が責めているように感じたならば、それは自分は責めるという業を持っているから。つまり、自分が相手を責めているから、自分は責められているように感じる。
だから、自分を取り巻く環境は自分の心が生み出している。責めたら責められるし、逃げたら、まわりの人が自分を避けるようになる。
他人は自分の悪い所があるから、自分を責めているのではない。自分が他人を責めているから、責められるのである。
このように考えると、自分が幸せになるのも、苦しむのも、すべて自分の心によって決まるということが分かる。
そこで大事なことは、自分の心からどんな心が起きているか。
自分が他人に対して起こしている思いの数々が自分の元へと返ってきて、自分の心を苦に染めたり、幸せにする。
すべては自分の心によって決まると分かれば、他人を問題にするよりも、自分の心に目を向け、自分の心から悪い感情が起きないように気をつけるようになる。
自分の心が変われば、まわりが変わる。まわりが変わらないのは、自分のまわりの人たちに対する接し方が変わらないから。
相手は自分なんだと思えば、優しくなれる。冷たくすれば、後で自分が苦しむのだと分かれば、温かく接するようになる。
すべては自分の心によって決まるのですね。
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