御一代記聞書 連れが大事 教えが大事

「「同行・善知識には、能く能くちかづくべし。親近せざるは、雑修の失なり」と、『礼讃』にあらわせり。悪しき者にちかづけば、それにはならじと思えども、悪事、よりよりにあり。只、仏法者には、馴れちかづくべき」よし、仰せられ候う。俗典に云わく、「人の善悪は、近習による」と。また、「その人を知らんとおもわば、その友をみよ」といえり。「善人の敵とはなるとも、悪人を友とすることなかれ」という事あり。(150)
(意味)
「『法友や善知識には積極的に、自ら心がけて近付きなさい。親しみ近づこうとしないのは、阿弥陀仏に救われない人たちに共通する悪い癖である。』と『往生礼讃』にも教えられている。悪しきものに近付くと、そのようには自分はならないぞと思っていても、段々と相手の悪に染まってしまうもの。ただ仏法者には馴れ近付いてゆかなければならないのだ。」と、仰せられた。このことは世の中の本にも「その人が善人になるか、悪人になるかは、どんな人に近付き、何を習ったかで決まる」と教えられている。また、「その人を知りたければ、その友を見なさい」とも、「善人を敵と思って恨むことがあったとしても、悪人を友と思って親しくしてはならない。」とも言われている。
(解説)
同行、善知識にはよくよく近付きなさい。同行とは、阿弥陀仏の浄土まで同じ道を求めているもの、進んで行く人たち。つまり、法友のこと。よくよく近付きなさいとは、積極的に自ら心がけて近付きなさい、ということです。なぜ蓮如上人はこのようなことを言われるのでしょうか。それは心がけて近付いてゆかなければ、法友や善知識に近付くことなく、悪しきものに近付くからです。
では、悪しきものとは、どんな人かと言えば、因果の道理から外れたことを考えている人。言葉を変えるならば、苦しい時、不安な時、その苦しみや不安を自分の中で浄化しようとはせず、誰かを悪者にしてその人が取ってくれたら楽になれるのにと思っている人。要するに責める人のことです。責める人は、正しい所に立てば間違った人を責めることができると思っている人。その為には自分が正しくなければならないので、正しさにこだわり、自分が正しくなければ、苦しくても我慢する。そして、自分の正義に合わない悪を見つけては、責める人のこと。でも、そうやって責めるのは相手の間違いを正す為ではなく、心に溜まった不安や苦しみを吐き出すため。つまり、この人は、責めることを通して不安や苦しみを吐き出し、相手にぶつけているのです。そうやって、責めれば、その時は心が楽になる。でも、一時的に苦しみを吐き出して楽になっても、しばらくすると不安や苦しみが溜まり、心が苦しくなる。そうなると、また、吐き出そうとして、正しい所に立って誰かを責める。責める相手がいなかったら、誰かを悪者にしてでも責める。だから、責める人は苦しくなると他人のことが悪く見える。そうやって、責められると、相手は責める人の不安や苦しみを受け取った分だけ苦しむ。だけど、責めた人は、この人は悪いことをしたから、苦しんでも当たり前と思い、相手に対して慈悲を起こして、哀れむことがない。これが責める人。責める人は同時に我慢する人でもあります。なぜなら、自分が相手を責めることができるのは、正しい所に立っている間だけ。自分が正しくなければ、責めることができず我慢しなければならなりません。その為に苦しくても不安でも、その苦しみを吐き出すことができず、我慢して押さえ込んでしまうのです。また、我慢するから、心の中に不安や苦しみが溜まり、やがて、誰かを責めて、不安や苦しみを吐き出さずにはおれなくなる。結局、我慢する人は責める人になります。そうしなければ、心の中に不安や苦しみが溜まって、心も体もおかしくなってしまう。だから、責める人も我慢する人も共に、不安や苦しみを自分の中で処理をせずに、誰かに押し付けて楽になろうと思っている人であり、悪しきものなのです。このような人は自分で不安や苦しみを作らないように努力することはありません。不安や苦しみが起きたら、他人に押し付けたらいい。そう思っているからです。だから、いつまでも心の中で不安や苦しみを作り続ける。責められた人は責められた人で、自分の中にある苦しみを自分で処理しようとはせず、より弱い立場の人に吐き出す。例えば、夫婦喧嘩をして、スッキリしない気持ちを吐き出したくて、子供に八つ当たりをする。だから、このような悪しきものに近付くと、自然と苦しい時は、自分も他人を責めたらいいんだと思うようになります。なぜなら、どんなに苦しみに耐えて、我慢しても相手は感謝してくれるどころか、当たり前に流してしまうからです。それでいながら、何か間違いを見つけると、カッと腹を立てて責めてくる。こんなことを繰り返すと、自分だけなぜ我慢しなければならないのか、馬鹿らしいと思って責めるようになります。そうやって、責めると楽になるので、苦しいときは無理して我慢するよりも責めた方がいいと考えるようになってしまう。これが“悪しきものに近付けば、それにはならないぞと思っても、段々と悪に自分も染まってゆく”ということです。だから、必要以上に不安や苦しみを受け取らない為にもに悪しきものには近付かない方がいいのです。それに対して、善知識、同行は責めない。その代わり、因果の道理を説き、不安や苦しみは自分の中で処理できるように、戒を勧められる。だから、今まで悪をしてきた人は仏法を聞くと苦しくなる。それは、苦しくても、他人を責めて押し付けることができなくなるから。当然、仏法聞く前よりも苦しくなります。だから、苦しみを自分で処理するよりも他人に押しつけた方が楽だし、それがいいことだと思っている人は、「仏法は自業自得ですよ。苦しくても他人を責めるのではなく、自分が動いて苦しみを解決してゆかなければならない」と聞くと反発する。そして、「悪いのは自分ではなく、あいつの方だ。なのに、どうして、その相手を責めてはならないのか。あの人は散々、悪を造るだけ造って、その悪を吐き出してくる。私は被害者なんです。」と動くべきは自分ではなく、悪いことをした相手の方だと思っている。その為に不安や苦しみを受けて苦しんでいるのは、自分なのに、その自分の為に動こうとはしない。動くのは自分ではなく、悪いことをした相手の方だとカンカンに思っているのです。このように思っているから、善知識、同行に親しみ近づくことができない。それは、近付くと、自分が間違っていることが知らされるから。そして、相手を怒りにまかせて責めたり、批判したり、馬鹿にすることができなくなるから。だから、自ら進んで近付こうとは思わないのです。結局、私たちは苦しいとか、不安だとか、不満を言っていても、それを解消するために、自分を変えようとは思いません。今のままの自分でいいと思いたいから、苦しくても我慢してしまうのです。だから、自分の間違いを知らされることは苦しいことであるが、間違いを認めなければ苦しみから離れることはできない。だから、自分の間違いを認めるために善知識、同行に近付きなさいと勧められるのです。結局のところ、私たちの心は嫌々でも、近づいた人の影響を受ける。善人に近付けば、善人の思想に染まるし、悪人に近付けば、悪人の考え方になってしまう。だから、“人の善悪はどんな人に近付くかで決まる」とか、「その人を知りたければ、その友を見なさい。」と教えられるのです。このため、敵(かたき)であっても善人に近付けば善人になるし、親しいからと言って悪人に近付けば悪人になる。だから、“善人を敵とするとも、悪人を友とすることなかれ”と言われるのです。

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