相手の喜んでいる姿を喜べない

人が喜んでいる姿を見て一緒になって喜んであげられないのは、どうしてですか?
なぜ喜べないのかと言えば、相手に喜んで欲しいもらいたくて、何かしてあげた時に、頑張った自分のことも見てもらいたいという心が起きるから。見てもらいたいのに、相手は自分が喜ぶだけで、私の方を見てくれない。だから、喜ぶことができないのです。
この私の方も見て欲しいと思う心を仏教では、愛欲と言います。私たちは愛欲の塊。でも、普段はそのことに気づかない。でも、相手の為に何かをしてあげた時に、この愛欲があることに気づく。
こういう時は、この自分の愛欲を我慢して抑えるのではなく、相手に対して、正直にこんなにあなたの為に頑張ったんだよと伝えることが大切です。
それは、私たちは相手の為に何かをしてあげることは、純粋に相手の為にしていることではなくて、やってあげたら、相手は自分なことを認めてくれると思うから。だから、愛欲を満たしたいと思って、相手にしたんだという自覚を持つことが大事です。
しかし、この愛欲に気付く為には、自分の愛欲を満たす為にやるんだと思ってやっては気づかない。だから、純粋に相手に喜んで欲しいと思ってやることが大切です。
心から相手の為にやると、純粋に相手の為にやっていない、結局、相手から認めて欲しいと思っている自分に気付く。
ここで自分の愛欲の為にやっているから、愛欲を満たしてくれない相手が悪いんだと思うのではなく、純粋に相手の為にやってあげたつもりなのに、純粋にすることはできないんだなということに気付くことが大切。
それは私たちは純粋に相手の為にできると自惚れているし、相手に対しても純粋にやるべきだと思っているから。
だから、不純な心でやっている人を見ると、それを頭ごなしに、非難する心が起きてくる。でも、自分が実際に純粋にやろうと思って、できないことが知らされると、他人が不純な心でやっていても人間だから仕方ないと思えるようになり、不純な心でやってしまう自分も、こんな心起こしてはならないんだと頭ごなしに否定することはなく、つくづく自分のことしか考えてない自分なんだけど、これもまた自分なんだと許せるようになる。
愛欲は純粋に相手の為にやってこそ、知らされる。始めから愛欲しかないんだと思って、正直に自分の思いを言えばいいんだと思ってやると、ただわがままを言うだけで、自分の愛欲を満たすことはできない。愛欲を満たすとは、何でも自分の思いを言えばいいんだと正当化するのではなく、大事な思いを受け止めてもらいたいと頭を下げて伝えるもの。この気持ちに気付く為には、まず自分が相手の思いを大事にすることが必要。
純粋に相手の為にやろうとして、これは相手の為ではなくて、自分の気持ちを受け止めて欲しいからなんだと気付く。だから、その気持ちを相手に正直に伝えて認めてもらう。私たちは自分のことしか考えていないからこそ、相手の為に純粋にやろうと思う。そして、純粋になれない愛欲の塊の自分を否定することはなく、正直に相手に伝えてゆくことが大切なことなのです。

コメント

タイトルとURLをコピーしました