こんにちは、上田です。
読んで頂き有難うございます。
人間にとって最も嫌なことは自分の真実を知ることじゃないかなと
思います。
私たちは誰しも自分を価値ある人間と思いたい。
それは価値のないものは生きる資格がないと
無意識に思っているからだと思います。
仏教では、このように善悪とらわれることを疑情と教えられ
これが私たちを苦しめる、苦しみの根本であると教えられています。
世の中の人で生きる価値のない人間はいません。
すべての悪を許せるようになった時、本当の自分の姿を
見つめられるのではないかなと思いました。
帽子をかぶって喜ぶあかり。
コメント
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時々、読ませて頂いています。
お子様の微笑ましいお姿、成長ぶり、幸せそうで何よりです。
「仏教では、このように善悪とらわれることを疑情と教えら
これが私たちを苦しめる、苦しみの根本であると教えられています。」
疑情は、確かに苦しめる根本ですが、本願疑惑心ではないでしょうか。
善悪にとらわれているのは、疑煩悩ではないかと思うのですが。
本願疑惑は「摂取の光明」で、たちどころに消えてしまい、そのまま死ぬまで変わらない御恩報謝の身にさせて頂きます。
しかし、死ぬまで凡夫の我々は、疑煩悩は消えないので、物事を善とか悪とかに分けてみたり、世間の価値観で判断してしまいがちだと思います。
以上、感想を書いてみました。
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コメントありがとうございました。
私が尊敬している細川さんの本には、本願疑惑心とは、
善悪にとらわれている心であると教えられていました。
阿弥陀仏はどんな極悪人でも救うと誓われているということは、
悪を造っているものでも見捨てず救うということです。
しかし、私たちは悪をしたら助からないと思っています。
これが善悪にとらわれている心であり、これによって私たちは苦しんでいます。
疑情とは、言葉をかえると信罪福心のことであり、善悪にとらわれている心のことだと
思います。
以上、私も感想を述べさせていただきました。