こんにちは上田です。
私たちはなぜ相手を疑うのでしょう。
なぜ最後まで信じられないのでしょう。
たとえ、自分にとって都合の悪いことを言われたとしても、
善意に善意に解釈して、相手を最後まで信じられたらどれだけ
いいだろうかと思います。
私たちは誰かと知り合いとなって、心を開いて、親友となるまでに
たくさんの時間をかけます。でも、どんなに親しい人であっても、
ひとたび疑いの心が起きると、その関係が段々と崩れてゆきます。
そんなとき思うんです。相手が私を疑っていたとしても、自分が
相手を信じられたら、人間関係が崩れずに済むのに…。
だから、相手を最後まで信じてゆきたい。でも、やってみると
なかなか出来ないんですね。
悔しいけど、これが私の現実。それを受け止めて、少しでも自分を
変えてゆきたいです。
コメント
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はじめまして。
いつもネットサ~フィンで拝見させていただいてます。
「信じる」って、疑うことなくいたらそんな言葉は出てこないように思います。
「信じているから・・・」とかって、「実は疑っているけど、願望としては疑うような事実はなく信じられることを希望する」という本音があるような気がしてなりません。
職場などでも、裏があるなんて思いもしないで、もちろん疑うことなく100%信じて人と接していますが、ガッカリするようなことも多々ありますよね。。。
でも、仰るように、私は「信じていたい」、そんな感じです。
また、拝読させていただきますね。
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疑う心は・・・・実は自分が同じ立場だとそうしてるかもしれんていうのから・・・
産まれてきてるんだと想う・・・
自分の考えられる範囲なんだよね・・・結局!
だから・・・・相手の立場を考えてるつもりでも・・・実は自分に当てはめてる・・・・
自分が裏切るかもしれないだから・・・・この人もそういうことがあるかもしれんとなるような気がするんだよな?どうです?