私たちは毎日当たり前のように今日が終わったら、明日が来ると思っている。明日は死なないと思って生きている。この思いは明日になったら、また、明日は死なないと思っているし、明後日になっても、明日は死なないと思っている。それはちょうど、背中から日の光を浴びている時に、自分の影を踏むようなもので、自分が前に進んだら、影も前に進むようなもので、いつまで経っても影を踏むことはできない。
それと同じように明日死なないと思っている人は、明日になれば明日は死なないと思っているので、いつまで経っても自分が死ぬと思える日なんて来ない。
つまり、明日死なないと思っている心は永遠に死なないと思っている心でもある。
でも、どんなにいつまでも生きてられると思っても、人間は永遠に生きておれる訳ではない。やがて、明日は死なないという思いに裏切られて死んでゆかなければならない日がやってくる。
その時になって初めて死ぬということの意味が知らされる。
なぜ永遠に死なないと思っていたのか。
それは死ぬと思うとあまりにも恐ろしいから、死ぬと思いたくなかっただけ。死ぬと思いたくないから、我が身の死を遠く追いやり、明日は死なない、明日は死なないと死を真面目に考えることから逃げていたんだと。
私たちは死を恐れる。それは魂が死んだらどうなるか知っているから。死んだら恐ろしい不安が待っているから、私たちは自分が死ぬとは思えないし、明日は死なないと死を考えることから逃げていたのです。
明日は死なないと思っていても、死ぬときには死ぬ。それは何か前触れがある訳ではなく、突然やってくる。
やってきてから、考えていては手遅れ。だから、今から死について考えていかなければならない。それが仏法なのです。
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