愛欲が満たせないから我が強くなる

人間は愛欲の塊。心の中ではいつも自分のことを見て欲しい、自分の気持ちを分かって欲しい、自分を大事にして欲しいという気持ちが渦巻いている。
この愛欲を満たしてくれる人がそばにいて、いつも自分のことを心にかけてもらっているならば、私は心が潤い苦しみはないが、自分は頑張っているのに、誰も見てくれず、いつも寂しい思いをしていると我が強くなる。
我とは常一主宰の心。
この中の宰とは、自分が正しいと思う心。どちらが正しいか、どちらが間違っているかにとらわれ、正しい人は間違っている人に思いを通すことができると思う心。そして、思いを通すことによって、自分は価値のある人間だと思えるので、心が楽になる。
私たちにとって価値とは大事なもの。自分の人生に価値をおいて、自分を確認している。まるで価値があることが自分の存在の証明に思えて、もしも自分の価値が否定されたならば、自分が生きていても意味がないように感じて苦しくなる。
この価値にとらわれる心は、愛欲が満たされない人ほど強くなる。それは価値があると感じられるだけで、自分はまわりの人から大事にされる存在だと思えるからである。
だから、愛欲が満たされないと価値を求めて、自分は価値ある存在になって、大事にされる存在だと感じて心を落ち着けたいのである。
でも、多くの場合、私たちは人生の中で様々なことに努力している筈なのに、それをまわりの人はなかなか認めてはくれない。だから、みんな自分のことを内心価値のない人間なんだと思っている。
でも、価値がないということは、自分の存在が否定されているようで苦しい。だから、手っ取り早く自分は価値のある存在だと思えるように我を求める。
つまり、正しい所に立って間違っている人を否定し、思いを通す。このような人は、悪いものを否定している時は、正しい所に自分が立てるから、自分は価値のある存在に思える。
それは頑張っているのに、自分の努力が認められない人ほど、誰を悪者にして否定することによって快感を味わうので止められない。
それほど、みんな愛欲に飢えているのであり、それを誤魔化す為に価値を求めているのである。
我は価値。みんな間違っている人がいたら、自分とは関係なくても腹を立てて、その悪を正そうとするのは、正義という価値を得たいから。
でも、価値がある自分になりたいから、悪を否定した分だけ、自分の価値が崩れた時には、自分のことを否定してしまう。
我とは、両刃の剣。価値のある自分になろうとして悪を否定することは、自分を否定しているのと同じ。
それは自分に価値がある間はやって来ないが、価値を失った時に今まで他人に向いていた刃が今度は自分に目掛けてやってきて、自分の心を切り刻む。
すべての人は、臨終に我が崩れる。我が崩れるということは、自分の存在を証明してきた価値が失われる。
その時、誰もが今まで自分が価値のある人間になる為に他人に向けてきた刃が今度は自分を襲う。
価値を得る為に、正しい所に立って悪を否定してきた人ほど、価値を失った自分を悪だとみなし、思いっきり否定する。
誰もが何気なく正しい所に立って悪を否定しているが、それは後に恐ろしい結果となって、自分の心を切り刻む。
それでも、私たちは愛欲が満たされない限り、価値のある人間になる為に悪を否定し、正しい所に立とうとしてしまう。
人間の恐ろしい性ですね。

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