善とは10

じゃあ、楽になることが幸せではないとしたら、私たちはどうすることが幸せなのか。仏教では私たちのやる行いと有漏と言われます。有漏とは認めてもらいたいという心が行いに混じるということで、どんな人でも頑張ったら頑張った分だけ、自分のことを認めてもらいたいと思っています。ここで認めてもらえるとはどういうことか。たとえば自分のやったことをよくやったね。頑張ったねと言ってもらえることも認めてもらうことですが、そうじゃなくても、ただ自分のやっていることを誰かに見てもらえるだけで、心は安らぐものです。たとえば、子供なら自分のやっていることを見て見てと言います。私にも子供がいますが、その子供がYOUTUBEを見ていても、声をかけてきて、一緒に見ようと言ってきます。それは一人で見るのが寂しいからです。私たちは本音から言えば、独りでいることが寂しい生き物です。だから、誰かと一緒にいて、自分の存在を見てもらいたいと思うのです。結局、私たちが善をして求めているもの。それは自分の存在を見てもらうことなのだと思います。世の中でお金を求めるのも、権力を求めるのも、地位や名誉や財産を求めるのも、それを手に入れることによって自分の存在を見てもらえると思えるからだと思います。親鸞聖人は愛欲の広海に沈没してと言われましたが、この愛欲とは自分のことを愛して欲しい、大事にして欲しい、認めて欲しい、自分のやったことを分かって欲しいというどうしようもない感情のことです。それが誰でも広い海のようにあって、その中で溺れているものが私たちなんだと教えられています。だから、私たちはそんなどうしようもない感情を満たす為に生きているのです。この感情を相手に満たしてあげること。それが仏教で善と言われるものなのです。つまり、相手の存在を見てあげられるような人間になりたいというのが、仏教で善と言われるものなのです。こんな善のできるような人間になりたいと思う心。それがここで善を作して善を得。道を作して道を得る人なのです。

コメント

タイトルとURLをコピーしました