仏教とはどんな教えなのか。
一言で言ったならば、執着を取り除く教え。執着とは苦しみを生み出す。だから、使わないものは整理して捨ててゆき、残ったものはすべて使ってゆくことが必要になる。
執着とは使わないものに溜まる。使わないものを放置すると心の中に執着が溜まってゆく。
執着こそ心の穢れ。穢れが溜まると自分の心が見えなくなる。
自分の心が見えなくなると、他人の振り見て我が振り直せということが出来なくなり、できる所に自分が立って、他人を見下したり、批判するようになる。
しかも、批判していながら、批判していることに気付かないし、見下していながら、見下していることにも気付かない。それが穢れて自分の心が見えないから。そうやって、心が穢れると偉そうな振る舞いになってゆく。
私たちは自分の姿は自分では見えないもの。それが心が穢れるともっと見えなくなってしまい、理想の自分こそ自分だと思って自惚れるようになる。
そうやって、自分の思い通りに物事が進んでいる時はいいが、思い通りに進まなくなると腹を立てる。そして、簡単に他人を責める。
そうやって、他人を責めた分だけ、今度は責められたように感じて苦しまなければならないのに、それが分かっていない。
心が穢れると自分の姿が見えなくなるので、簡単に罪悪を犯すようになる。
そうやって、罪悪の報いがやってきたときは、自分が罪悪を犯した報いがやってきたと思っていないから、自分が悪いと気付くことなく、もっと他人を責めてしまう。このようにして、罪悪を重ねてゆくのが、心が穢れている状態。
自分が見えない状態とは、とても危険な状態。ちょうど焼け火箸を焼け火箸だと気付かずに握るようなもの。そうすると、焼け火箸だと気付いていない分だけ、酷い火傷をするように自分の心が見えてない人は重い罪悪を犯す。
自分の見えている世界は自分の心が生み出した世界。自分がどんな心でタネを蒔くかによって、見える世界も変わってゆく。
どんなに自分が正しくても他人を責めたら、心は責められるのではないかと不安になる。また、見下したら見下されるのではないかと不安になるし、どんなに悪人だからと言って見捨てたら、見捨てられるのではないかと自分の心を恐怖に落とし入れる。
自分が他人に対してどんな気持ちで思いを起こしているか。それが如実に跳ね返ってくる世界がこの世界。これが仏教で教えられる因果応報の世界。
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