人は死んだらどうなるか?

人は死んだらどうなるのだろうか?

最近このことをよく考える。僕も今年で四十になった。あと今まで生きた時間の分だけ生きたら、人生の終わり。今までの人生を振り返ってみて長かったように感じるし、短かったようにも感じる。そうやって人生が終わったら、僕はどうなってしまうのだろうか、このことを考えずにはおれない。死んだら何か魂というものが残るのだろうか。私は残るように感じます。でも、その魂とは何か?意識があるのかないのか?

人間認知症になったら子供のことや意識がハッキリしなくなる所を見ると、そういうものは肉体に付随するものであり、死んだら無くなってしまうものだと思う。では、何が残るのだろうか、、、。

仏教では業が残ると言われる。業とは何だろうか?自分の性格みたいなものだろうか。よく子供を見て思うことだが、人間というのは生まれながらにして性格があるように思う。もちろん、その後の子育てによって、その人の人格も少しずつ変わってゆくように思うが、すべては子育てたけでは決まらない生まれながらの性格というものが、その子その子にあると思います。では、それはDNAで決まるのか?もしDNAで決まるとしたら、子供の性格はどんなに頑張っても変わらないことになるし、兄弟で性格が変わったり、双子で性格が大きく違うこともおかしくなる。また、人間は死を恐れることもない。生き物はどんなに小さいものでも死を恐れる。それはどんなに大きな人間でも、どんなに小さな虫けらに至るまでも、共通して肉体の中に何か、魂と言えるものがあるから。

死とは何か。私たちで言ったならば、肉体を失うこと。よく思うことだが、人間歳を取っても本質的な所は何も変わらないなあと思う。責められたら腹が立つし、ちょっとのことにとらわれて、自分を見失う。小さいときに心を成長させてきた人は年とともに心が成熟してゆくが、心を成長させて来なかった人はどれだけ歳を取っても、心は幼いまま。もし肉体だけの存在だとしたならば、そんなことがあり得るだろうか。私たちの肉体の中に何かが収まっているから、それが幼いとか大人になったということがあるのだと思う。ここで大切なこと。それは魂とは理性ではない。理性では押さえ切れない感情こそ。私たちの肉体の中に収まっている魂なんだと思います。

そこで次に大事なこと。それは魂が存在するとして、それが死んだらとうなるか?

私は生まれてくる時に母親の体内に何か、魂みたいなものが宿るので、死んでも魂は存在すると思います。

仏教では死んだらどうなると教えられているか。それはまず死んだら記憶が無くなる。でも、生前何かに強く執着していた人は記憶を失うと同時に自分が何に執着していたのかも忘れるので、もの凄く不安になる。喩えるならば、執着するというのは、何かに寄りかかるようなもの。私たちは不安なときに何かに寄りかかってこれがあるかろ大丈夫だと思う。それがお金かも知れないし、この人さえいれば大丈夫だと人に寄りかかるかも知れない。死ぬというのはそういうものを失う。それは自分は何者かというものを見失うようなもの。それはとても不安なこと。自分はここに存在していながら、存在していないのではないかと不安になる。しかし、死とは残酷なもので次に自分の肉体をも失う。死ぬのだから当然肉体を失うのは当たり前なのだが、当の本人からしてみれば、自分とはこれだと思っていた最大の明かりを失うということ。それは自分を見失うことでもある。人は一生懸命何のために生きてきたのか。それは多くの場合、お金や財産をかき集める為。そして、そのお金や財産を使って自分の存在をまわりの人に認めさせる為。そうやって、必死にかき集めてきたものも死んでゆく時には何一つ持ってゆくことはできない。それだけでない。自分の肉体さえも死んでゆく時には置いてゆかなければならない。それで何が残るか。業が残る。業とは何か?業とは、自分の中にある自分とはこういう存在だというもの。私たちの中には自分とはこういう存在だというものがある。それは記憶ではない。脳でもない。それが外から刺激を受けることによって動き出す。無意識のうちにいつもと同じ行動をしている。不思議なもので私たちはいつも動いているように何か起きた時に心が動く。どんなに頭では頑張らなくてはならないと分かっていても、嫌なことがあるといつも逃げている人は嫌なことを目の前にすると逃げたいなという感情が起きる。この内側から吹き上がる感情こそ業。理性は頭でこうしなければならないと思っているもの。それに対して業とは内側から吹き上がる感情。嫌だと思ったら嫌。やりたくないと思っている感情。これが業。業の中には何が収まっているのか。業の中には業種子が収まっている。それは何かを見て、それをどのように受け取り、それに対してどのように思って、どのように行動するか。それが一塊になって心の蔵である阿頼耶識の中に収まってゆく。

私たちはなぜ肉体を失っても魂が存在するか。それは肉体が先ではなく、魂が先に存在し、肉体を生み出したから。私たちの魂とは元々どこにあったのか。それは自分も他人も区別が出来ないような無明海の中に存在していた。それが自分を知りたいと動き出し、魂を生み出した。これが私たちの魂。この魂が肉体を生み出し、自分の存在がここにあると認識してもらうことによって安心するようになった。私たちが存在価値を確認するのも、自分一人では自分がここに存在しているか分からず不安になるから。だから、まわりの人から自分を見てもらうことによって自分はここに存在しているんだと感じて安心する。そして、そんな私たちは価値を問題にするようになる。価値を問題にするとはどういうことか。みんな価値のあるものを手に入れたら、みんな自分のことを認めてくれる。自分のことを大事にしてくれると思っている。みんな見捨てられることを恐れている。では、見捨てられるとはどういうことか。それはみんなの目がよそに向いて自分の方を向いてくれないこと。みんなと一緒に暮らしていても相手が自分のことを見てくれないと寂しくなる。そんな時、子供なら寂しいので親の所に近付いてゆく。そして、自分の存在を見てもらおうとする。これは大人でもそう。大人でも自分の存在を認識してもらわないと寂しくなる。私たちは何のために生きているのかと言えば、自分の存在を認識してもらう為と言ってもいい。これが私たちの肉体に収まっている魂の欲しているもの。でも、魂がどんなに欲しても欲を起こすと、自分の心から起きている感情が見えなくなる。魂は寂しいと感じながら、それが意識に上らなくなる。これが心が見えない状態。私たちは欲に流れることが楽しみだと思っている。それは欲に流れることで自分の魂の寂しさを感じなくて済むから。でも、外に向いていた眼が内側に向くと、そこにはとてつもない寂しさがあることが分かる。その寂しさに気付いてしまった人はもうそこから目をそらすことはできなくなる。つまり、欲に流れて現実を誤魔化しても段々と空しくなって自分の存在をちゃんと見てもらいたいと思うようになる。私たちは自分の存在を他人から見てもらうことによって心が落ち着く。また、自分の存在をちゃんと見てくれる中で自分の好きなことをしたいと思っている。どんなに自分の好きなことをしていても、それを誰かに見てもらえないとつまらない。私たちの楽しみとは何か。それは自分の体験したことを他人に話して、それを認めてもらうこと。いつも自分の存在を感じていたいと思っている。それが自分。

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