生きている中で、他人の言動が気になって、こうされるのが嫌だから、相手に直してもらいたいと思うことがある。
でも、嫌だと伝えても、相手が直してくれる訳ではない。
そういう時、私たちは腹を立てて、相手を責めたり、それができない相手ならば、誰かに愚痴を吐いて、相手を責める。
でも、仏教では、嫌だと感じたのは、自分だから、その自分の為に自分自身が動きなさいと教える。
しかし、この言葉を聞いて、そうだな、自分の為に動いてあげるかと思える人は、存在価値の高い人だけ。
存在価値の高い人は、自分の存在を大事だと思っているから、日頃から自分の思っていることに対して、わざわざ自分の為に動いてあげることができる。
だから、嫌だと思うことに対して、他人が動いてくれないなら、自分が動いたらいいと思って、気持ち良く動くことができる。
それに対して、存在価値の低い人は、自分の存在を大事だとは思えないから、自分が嫌だと思っても、わざわざ自分の不満の解消の為に自分が動いてあげようとは思えない。
だから、そういう人は、なるべく自分が動かずに他人が動いてくれたらいいと思う。
そして、このような人は、自分の為に自分が動くことはないから、いつまでも自分の存在価値は高くならない。
その為、いつまでも自分のことを大事だとは思えないのである。
では、このような人がどうしたら自分の存在を大事だと思えるようになるのか。
それは、誰かに自分の存在を大事にしてもらわなくてはならない。
ここで大事にされるとは、自分がわざわざ動いたことに対して、こんなことを頑張ってやったよと言って認めてもらうこと。
私たちは他人から自分の存在を認めてもらうことによって、自分自身のことを大事だと思えるようになる。
だから、自分のことを大事に思えない人は、まず他人から自分のことを大事にしてもらうことから始める。
この時、間違えてはならないことは、認めてもらうことは、こんなことが気になった、嫌だったと思ったことに対して、それが他人が汚したことであっても、自分が動いた時。
この時、私はこんなにも頑張ったということを相手に伝えて認めてもらう。
もちろん、伝える相手は自分のことを認めてくれる人。誰でも伝えていいものではない。
だから、自分の身近に自分のことを認めてくれる人がいたら、その人は、幸せな人。私たちはついついその人のことを軽く扱ってしまいがちですが、本当はその人は自分にとってかけがえのない人だから大切にしないといけない。
自分の存在価値を上げるには、自分のことを認めてくれる人が必要。
そんな人の存在を大事にすることで私たちは自分の存在価値も高くなり、自分の為に腰軽く動くことができるようになるのです。
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