やってあげた人がお礼を言う

私たちは愛欲の塊。だから、相手の為に布施をした時も、それは相手の為にやっているのではなくて、自分が認めて欲しいからやっている。
例えば、子供の為に服を買った。それは頭では子供の為にしてあげたことだから、子供の方がお礼を言って当然だと思ってしまう。でも、この服は子供がお願いして買ってもらったならば、子供はお礼を言うべきだが、多くの場合、親は子供に聞くことはなく、自分が子供に着てもらいたいから、服を買ってくる。だから、仏教から言ったならば、これは親のエゴを子供に押し付けていることになる。
だから、子供が服を着てくれたならば、お礼を言うのは買ってあげた方。なぜなら子供にこの服を着て欲しいという思いを子供が叶えてくれたから。親の思いを子供が受け入れてくれた。だから、お金を出したのは親だが、その親がありがとうとお礼を言わなければならない。
誰がお金を出したかは関係ない。誰が思いを通したか。通した人がお礼を言う。
仏教では、思いを通すことは悪いことではない。悪いのは、無理やり思いを通すこと。自分がこうしたいという気持ちを伝えて、それを相手が聞いてくれたならば、私は自分の思いが通ったから幸せだし、思いを通してあげた人も相手が喜んでくれるなら、通してあげて良かったと思える。
でも、多くの人は思いを通すことは悪いことだと思っているから、思いを通したいと思った時に、自分が通したいからという思いを相手の為にしてやったんだとねじ曲げてしまう。ねじ曲げるから、自分が相手の為にやったことを喜んでくれないと自分は何か悪いことをしたように感じて腹が立つ。そして、あなたの為にこんなに頑張ったのにと相手を責める。
でも、真実から言ったならば、どんなに相手の為にしてあげたことでも、相手がやって欲しいと頼んできたものではない。自分がしてあげたと自ら思ったもの。それはあくまでも自分の思いであって、相手の思いとは違う。だから、どんなに相手の為にしてあげたとしても、相手は喜ばないかも知れないし、反対に迷惑かも知れない。
だから、こういう所に立って、相手の為に何かしてあげたいと思ったならば、これをしたいのだけどいいかな?と相手に確認する必要があるし、確認せずにやって喜んでくれなかったとしても、それは勝手な自分の思いだったと受け入れなければならない。
だからこそ、自分がこうしてあげたいと思ってやったことを喜んでくれた時には、やってあげた方が喜んでくれてありがとうとお礼を言ってゆくことが大切なことなのです。

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