どうせやるなら

よく仏教は自分に正直になることが大切だから、自分が嫌だと思ったことを無理にやる必要はないと思っている人がいる。
確かに自分が嫌だと感じているのに、その感情を無理に抑えて、これをやることは正しいのだからとやることは良くない。
なぜ良くないかと言えば、自分の感情を無視した分だけ、他人の感情に対しても冷たくなり、たとえ他人が傷ついていたとしても、無理やり自分の正義を押し付けるようになるからだ。
自分の感情を犠牲にすると、他人の感情も平気で犠牲にするようになる。そして、自分は感情を我慢して無理やりにでも頑張っているのに、相手は楽していることが許せなくなる。そこで自分が感情を犠牲にして頑張った分だけ、相手の感情を傷つけたいと思うし、無理やりにでも自分の正義を押し付けたいと思うようになる。
そこには自分も相手も感情を傷つけても平気な鬼の世界ができあがる。
そういう意味で、自分の感情が嫌だと感じているのに、それを無理に抑えつけてやるのは良くない。
じゃあ、自分の感情が嫌だと感じたならば、やらない方がいいのかと言えば、それも違う。仏教では、自分の感情が嫌だと感じているからやらないというのを懈怠と言って、自分の心を軟弱にさせて、ちょっとした苦しみさえも耐えられない心にさせると教えられる。仏教的に言ったならば、自分が嫌だと感じたことも、それをすることが必要なことならば、積極的やって行きなさいと教えられる。そうしなければ、自分の心は強くならないし、ちょっとした苦しみさえも耐えられない弱い心になってしまうからだ。だからと言って、やるのが正しいことだと無理やりやるのも違う。じゃあ、どうしたらいいのかと言えば、嫌なことでも、やらされていると思わずに、自分の意志でやることが大切。大事なことは、目の前にある嫌なことを自分の意志でやるか、やらされていると感じるか。そこが違う。どうせやらなければならないなら、しょうがない、自ら進んでやってみるかとやってゆく。何事も他人にやらされていると思うのではなく、自分の意志でやることが大事。嫌なことでも、自ら進んでやってゆけば、嫌じゃなくなる。どうせやるなら、他人にやらされているのではなく、自分の意志でやりたいですね。

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