問 どうしたら疑情を晴らすことができるのでしょうか?
答 その為には三願転入の教えの通り進んでゆくことが必要です。三願転入とは十八願の真実の世界に入る為には十九願、二十願の方便の教えを通らなければならないという教えです。
まず、十九願とは、自惚れ強い私たちはどんなに真実を伝えても、それをそのまま受け入れることはできない。だから、“できると思うならばやってごらん”と相手を認めて、あえて自惚れさせる。そして、やらせてみる。
この時、心の中では、この人はやがて失敗すると分かっています。分かっていても、“これも方便だ”とやらせてみる。そして、失敗させるのです。導くものは失敗して当然というところに立っているのです。
そこで案の定、相手は失敗する。そうすることで、その人の我は崩れます。この時、この人の心の奥から吹き上がってくるのが疑情。疑情とは“こんなダメな人間は見捨てられるのではないか”と思う心のことです。それが見えると、相手から見捨てられるのが不安だから、相手から見捨てられる前に“どうせ自分なんか”と自分が自分を見捨ててしまう。そうすることで、たとえ相手から見捨てられたとしても、自分は所詮、そんな人間なんだからと心が傷つかないように、自分の価値を下げてしまうのです。
この時、“そんなことないよ。失敗は誰にでもある。大丈夫だよ。”と心を支えてゆく。これが二十願。二十願とは、自惚れが崩れて、疑情が吹き上がってきたとき、その人を絶対に見捨てないと心を支えてゆくこと。それによって、疑情が晴れてゆく。そこで疑情が少し晴れると、また、自惚れる。自分は何でもできるのだというところに立ってしまう。だから、相手の自惚れを認めてゆく。これが十九願。そして、自分はできると自惚れていたことが失敗すると、また、我が崩れ、疑情が吹き上がる。だから、“大丈夫だよ”とその人の心を支えてゆく。そうやって、少しずつ疑情が晴れてゆきます。疑情が晴れるとは、“こんな駄目な人間でも見捨てられないのだ”と思えるようになることです。
ここで自惚れとの違いは、自惚れとは、“自分はこんなダメな人間ではない。自分は価値のある人間なんだ”と思うこと。たがら、認められるとすぐに私たちはできるところに立って、ダメな人間を否定してしまう。でも、そんな自惚れているものでも否定することなく、失敗しても“大丈夫だよ”と認めてゆくことによって、段々と“ダメな人間でも生きていてもいいんだな”と思えるようになる。それが疑情が晴れてゆくということです。つまり、疑情を晴らすには自分の存在を肯定的に受け止めてくれる人が必要なのです。そういう人がいなければ、私たちは疑情を晴らすことはできません。どんなに「阿弥陀様はお慈悲な方だ、どんな極悪人も見捨てない」と聞いていても、私たちには阿弥陀仏のことは見えません。実際にどんなことがあっても、私のことを見捨てない。そういう存在がいなければ、私たちはとても疑情を晴らすことなんてできないのです。そういう方を仏教では善知識と言います。このように善知識によって心を支えてもらうことによって、私たちは疑情を晴らし、真実の世界である十八願の世界へと入ってゆくことができるのです。
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