教行信証解説【8】正信偈-応信如来如実言

教行信証 解説

8.正信偈-応信如来如実言

本願名号正定業 至心信楽願為因 成等覚証大涅槃 必至滅度願成就

阿弥陀仏の「すべての人を浄土へ往生させたい」という願いによって現れた善知識(名号)には、私たちを浄土(正定聚)まで導く力がある。そして、阿弥陀仏のお力によって浄土へ往生したならば、その浄土には煩悩を滅し、心を浄化していく功徳が成就しているので、どんな人も仏のさとりを開く所まで進むことができるのである。

如来所以興出世 唯説弥陀本願海

ここで如来とは、釈迦だけでなく、大宇宙のすべての仏様の事。その仏様方がこの世に現れ仏教を説かれる目的は何かと言いますと、それは、ただ一つ弥陀の本願海まで私たちを導くために教えを説かれたのです。では、弥陀の本願とは何かと言いますと、「すべての人を浄土へ往生させたい」という願いの事です。弥陀の本願海とは、この願いに満たされた海であり、この本願海に入った者は阿弥陀仏と同じように「すべての人を浄土へ連れて行きたい」という願いが、その人の心に起きてくるのです。誰だって他人のために苦労したい人はいません。本心を叩けば、自分の幸せしか考えられないものが私たちであり、自分が苦しんでも他人を助けたいと思う気持ちのないものなのです。そんな自分の事しか考えられないものを「全ての人を助けてあげたい。そのためなら、自分がどんなに苦しんだとしても構わない」そんな気持ちに変える事ができるだろうか?大宇宙の諸仏方はそこに悩まれ、人々に教えを説き、導かれたのです。では、お釈迦様はどのように私たちを導かれたのか?その事について譬えられた長者窮子という話がありますので、その話を通してお釈迦様がどのように導かれたのか明らかにしたいと思います。

(長者窮子の譬え)
たとえば、次の様な年老いた長者がおりました。彼は白のような邸宅に住み、金・銀・琥珀・珊瑚など計り知れない程の財宝を持っておりました。その長者は多くの召使いや家来を使い、本国はもとより他国の商人も大勢出入りする繁盛ぶりでした。また、あらゆる人々から尊敬され、国王からも信頼されておりました。しかし、長者には大きな悩みがあったのです。それは、五十年前に家出をした息子の事だったのです。長者は息子の事を心配して、地元の警察に頼んだり、私立探偵を雇って探させたりしましたが、一向に見つかりませんでした。
「このまま息子が見つからなければ、いくら財宝が倉庫に満ち溢れていても、私が死んでしまえば財宝は散らばり失われてしまう。せめて息子が見つかったならば、どれだけ心が休まるだろうか」
と悩んでおりました。一方、息子の方は生活に困窮し、乞食をしながら何とか生き長らえていました。自分が長者の息子だった事も忘れ、自分の事を誰も大事に思っている人などいないのだろうと思いながら、気の向くまま身の向くまま、今日は北へ明日は東へと歩いていました。そんなある日、窮子はたまたま長者のいる町へやってきました。そして、その町を歩いていると、中でも一際立派なお城のような建物があったので、そこへ行きました。窮子は建物の外から中の様子を窺いながら、こう思いました。
「すごいなぁ…、まるでお城のようだ!きっと王様のような人が住んでいるに違いない。私のような者はとても雇ってもらえる所ではないな。待てよ…。それどころか、こんな屋敷じゃ見つかったら奴隷にされ強制的に働かされるかもしれない。こんな所に長居は無用だ。くわばら、くわばら。」
そう思って見ていると、たまたま獅子の座に腰掛けている長者とバチッと目が合いました。窮子は何も気付きませんでしたが、長者は五十年という月日が過ぎて姿形は変わってしまったが、あそこにいるのは紛れもない私の息子。すぐに近くにいた人を呼び
「あの者を私の所まで連れてくるのだ」
と頼みました。そこで、使いの者が窮子の所まで走っていき、捕えて長者の元まで連れて行こうとすると、窮子は驚き
「私は何も悪い事をしていないのに、どうして捕えられなければならないのですか」
と大声でわめきながら抵抗したので、使者は窮子を捕えるのにますます厳しく強く引き、業因に連れていこうとしました。この時、窮子は
「何の罪もないのに私と捕えるという事は…。これは必ず殺されるに違いない」
と思い、あまりにも恐怖のために気絶してしまいました。長者は遠くからこれを見ていて使者に告げました。
「もう良い。その者は必要ない。無理に連れてくる事はない。水を顔にかけて目を覚まさせておくれ。また、その者と話してはならない」
と。長者がこのように言ったのは、窮子が長い間に心が下劣になり、このまま私に会っても溝が深まるばかりで、とても私の持っている財産を受け取ってもらえないと思ったからです。そして、この子を導くために方便として、他人に「この子は我が子である」とは語りませんでした。使者は窮子に対し
「俺は、今、お前を放すから、好きなようにするとよい」
と告げました。それを聞いた窮子は、ホッとして長者のいる町を離れて貧しい村へ行って、衣食を求めました。その時、長者は自分に背を向けて離れていく窮子を見ながら悲しみで胸が一杯になりました。そこで、何とかして窮子を手元に置きたいと思い、方便を設け、密かに姿や顔色が憔悴した威徳のない二人の者を窮子の所に遣わす事にしました。長者は二人の使者に命じました。
「お前たち、窮子の所へ行き、『こちらに仕事がある、今のお前の賃金の倍を与えよう』と話しなさい。その話を聞いて、窮子がもしそうしたいと言えば、連れてきて働かせなさい。そして、どんな仕事をするのか聞かれたならば、『お前を雇うのは糞を取り除く仕事をしてもらうためだ。俺も一緒に働くから、お前もどうか?』と穏やかに話して誘いなさい。」
そこで二人の使者はすぐに窮子を求めて出発し、貧乏人の住む地方に行き窮子を見つけ、
「お前に良い話を持ってきたんだ。どうだ?俺達と一緒に糞はらいをしないか?金は二倍出すぞ」
と誘いました。窮子はその話を聞き、
「よ~し、分かった。働くから先に金をくれ」
と賃金を先取りし、共に糞を取り除く作業を始めました。
ある時、やつれた身体で全身糞にまみれながら仕事をしている窮子を長者が見られ、あわれに思い、何とか近付きたいと思われました。そこで、窮子に近付くために瓔珞(ようらく)(金・銀などの宝珠を紐で連ねた装身具)と細くて柔らかな糸で織られた上等の服と厳飾する飾り具などを脱ぎ捨て、粗末で汚れた服を着、さらに鹿土を身体にふりかけ、右手に除糞の道具を持って、使用人たちに
「お前たち、一生懸命に働きなさい。怠けて休んではいけないよ」
と話しかけました。そして、窮子に対しても
「やぁ、お前か。お前はいつまでもここで働きなさい。ここを離れて他の所へ行くのではないぞ。お前の賃金は段々と上げてやるから。また、台所には様々な必要な物を置いている。盆・器・米・麺・塩・酢などがそこにある、遠慮なく使うとよい。また、年老いて弱った使用人がいる。必要な物はお互いにやり取りしなさい。そして静かな心になりなさい。おまえは今までギブ&テイクの心で生きてきた。それは、他人の役に立たなければ見捨てられるのではという不安を生み出し、他人の幸せを見ては妬みや嫉妬の心を起こしてきた。だから、お前は自分を認めてもらえる人を探し、常に人の顔色を見ながら動き回っていたのだ。ここの人たちを信じなさい。そして、役に立たないからと言って、冷たく接したり見捨てたりするような事はやめなさい。お前が必要としている物は十分にあるのだから、整理をして、まず自分にとって必要な物はどれだけか知りなさい。不足は、物が無いからではなく、心から来るのだ。どれだけ物が溢れていても、自分にとって必要な物が分からない人は常に物が無くなったらどうしようという不安を抱え、物やお金を集める事に必死になっている。しかし、整理をしなければ、自分にとって必要な物が分からず、必要と思える物がどんどんと増えていく。お前にとって本当に必要な物は、今必要な物だけだ。未来に対する不安に対して備えようとしたら、使うかもしれない物がどんどん増えていき、いくらお金や物があっても足りなくなってしまうのだ。皆が未来への不安を無くそうと物やお金を自分の元へかき集めようとするから、物やお金が不足するのだ。物やお金をかき集めようとしなければ、不足する事もないし、不安になる事もない。来るかどうかも分からない未来のために、いつか使うかもしれない物を取っておくことは、いたずらに不安をかき立てるだけだ。それは、安心しようとして動けば動くほど、心は不安に満たされていく。まずは、自分にとって必要な物は必ずやってくると信じなさい。この必要な物とは、今の自分にとって必要な物であり、確実に使う物だけだ。そして、考える事を今に集中させなさい。人間とは、実際にはやってこない未来の事を考えて、喜んだり、恐れたり不安になってばかりいる。そして、その事に膨大な時間やお金を費やし、肝心な事には全く目を向けようとはしない。だから、私たちはいつも時間やお金に追われ、不安を解消しようと、果てしなく欲望を満たすために時間を費やし、また、お金や物を求める事になるのだ。よく考えなさい。お前にとって本当に大事な事は、物やお金をかき集める事ではない。不安を無くし、心から穏やかな日々を送る事なのだ。そのために、整理をして、本当に自分にとって必要な物に気付きなさい。また、役に立たなくなったからと言って見捨てる事はやめなさい。人を見捨てると、今度は自分が見捨てられるのではないかという不安が起きてくるからだ。その不安は、見捨てられないために役に立とうとしたり、良い顔をするような心を生み出し、常に動いていないと不安になってしまう。これでは、いつまで経っても不安は消えることなく穏やかになることもない。まずは、ここにいながら、心が穏やかになれるように努めなさい。そして、これから先は、嘘をついたり、人を騙したり、恨んだり、陰口を言ったりしてはなりませんよ。なぜなら、これらの心は現実の苦しみを誤魔化し、逃げるものであるからだ。この様な心に支配されている間は、心の成長が止まり、いつまでも弱い心のままなのだ。お前には苦しみに対して目をそらさず受け止めていけるような、人間として強い人になってほしい。それは、外に対して強く見せるような見せかけの強さではなく、現実を受け入れる心の強さの事だ。お前が人間として成長する事を望むのなら、私はこれからお前を実の子のように取り扱う事にしよう。」
その後、長者は字名を作り、息子としました。その時、窮子はこの事を喜んだけれども、自分はよそ者の使用人で、下賤な身分の者だと思っていました。これは、窮子の心には「自分は醜く汚いので、そのままの自分では他人は自分の事を迷惑に感じてしまうのでは」と思っていたからです。だから、「他人から好かれたい、そばにいてほしい」と思いながらも、無意識のうちに自分から離れてしまい、結果的には孤独になってしまっていたのである。
「他人に認めてもらおうと無理をしたり、良い顔をしたりするから、心に糞のような汚いものがたまるのだ。それが自分の心を醜くさせ、人から離れさせ壁を作り、自分を孤独にさせてしまう。だから、糞はらいを通して、自分の心の糞を取り除いていく事が必要なのだ。」
窮子は、長者の言葉を聞き、真面目に糞はらいを二十年間続けました。その頃になると、窮子も長者の心を理解し、信頼するようになり、人からも慕われるようになりました。そんな窮子を見られ、長者はこう思われました。
「初めは、我が強く、欲に流れ、楽ばかり求め、人の見ている所では頑張るが人が見ていない所では怠ける。そんな者であった。また努力せずして得られる物ばかり求め、コツコツと積み上げて得られるものに価値を置いていなかったが、糞はらいを続けていくことによって、お金さえあれば買える物に対する魅力が薄れ、人間として成長することの素晴らしさが頭だけでなく、身体を通して知らされたようだ。人の見ている所では頑張って、心の中では楽を求めている時は、損得勘定や利害打算で動いて、人から信用される事もなかった。しかし、人間として成長していく素晴らしさを知った今は、人が見ているとか見ていないとかに関係なく、自分のためにやっていこうという気持ちになって行動している。だから、人からも信用されるのだろう。また、私の話を都合を入れずよく聞き、その通りに実行するようになった。初めは、話を聞いている時は殊勝そうに聞いていても、自分の考えに合わない所は疑問を起こして聞く事なく実行しない。そんな我の強い者であったなぁ。ここまで来るまでには、長い道のりがあった。段々と話を聞く耳を持つようになり、教えを受け止められるようになると、自分の考えと合わない所が見えてきて、反発してきたこともあった。あの時は大変だった。私の悪い所ばかりを探しては攻撃し、私から話しかけても聞いてくれない事もあった。またある時は、苦しみのあまり「ここに来たからこのようになったんだ」と思って恨みをぶつけられる事もあった。あの時はきっと、窮子も心の中では、元の自分の殻に閉じ籠っていい顔をしたいなと思ったり、それでも最後には死んでいかなければならないと思うと逃げれないと知らされ、苦しいので、その苦しみから私に対して恨みをぶつけたいという気持ちになったり、それでも、教えを聞くと前に進むしかないと思って、自分の我を修正して教えを受け入れたりして、ぐるぐると回っていたのだと思う。よくぞ、その苦しみの中から、もう逃げられないと知らされ、前に進むしかないと疑いを破り、信を得る事ができたものだ。信を得る事によって、私の心と通じ合う事ができるようになったのだろう。」
そして、長者の邸宅に出入りするのに、何のはばかりもなくなりました。しかし、窮子の寝起きする所は、依然として最初の場所のままでした。それを見られて長者はこう思われました。
「窮子は穢れの離れた浄らかな世界へと進み始めているのだが、穢れた世界から離れようとすればするほど、故郷を慕う人のように、今までいた世界に対して執着してしまうのだろう。いつかは離れていかなければならないと知っているからこそ、少しでも留まっていたいと元々いた所にしがみついているのだろう。こう思うことも仕方の無い事だ。」
その後、長者は病気になりました。そして、窮子を呼び語りました。
「私はもう年を取り過ぎて、そう長くは生きられない。私は今、多くの金・銀、また珍しい宝を持っており、蔵の中に満ち溢れている。その財宝を正しく人に与えていったらいいか、それに必要な多くの知識をお前は悉く知っている。どうか私の心の全てを体得してほしいのだ。何故かと言えば、私もお前と同じような立場に立ったことがあるからだ。どうか、未来にこの宝が無くなってしまう事がないように気を付けて欲しいのだ。」
その時、窮子はすぐに教えを心に刻み、金・銀、珍しい財宝など、多くの物を受け取りました。しかし、あくまでも生活は自分が稼ぐことにより生きていこうと思っており、財宝によって自分の生活を支えていこうという気持ちはありませんでした。しかも、窮子の寝泊りする場所は以前と変わっていなかったし、自分の事しか考えられない狭くて下劣な心も、未だ捨て切れてはいませんでした。さらに時が少し経って、窮子は自分の事ばかり考えるのではなく、相手の幸せも考えられる広い心を持つことの素晴らしさを悟り、長者の進んできた道こそ自分もいつかは進んでいかなければならないと思うようになり、今まで自分の事しか考えなかった心を賤しむようになりました。しかし、どんなに長者の導きによって窮子の心が長者の心に近付いたとしても、窮子の心の中には、
「長者は私を導いてくれた人、私は長者に導かれた人。だから、私は長者がいてこそ導く事が出来るのであり、私はどんなに頑張っていたとしても、長者のようにはなれない」
窮子の心には、そんな越すに越せられぬ深い溝があったのです。長者はそんな窮子を見られ、
「このままでは、私が生きている間は、宝は残っても私が死んでしまったら、この宝は蔵だけを残し、中身は全部消えてしまうだろう。何とかしなければ。」
と思いました。そこで、長者の命が終わろうとした時に、窮子に親族・国王・大臣・クシャトリヤ・他の長者たちを集めるように命じました。そして、皆が悉く集まった所で長者は自ら宣言しました。
「皆さん、よく集まって下さいました。実は、私が死ぬ前にぜひ皆さんに知っておいてもらいたい事があるのです。皆さんに明らかにしておきます。ここにいる男は五十余年前に分かれた息子なのです。私の本当の子です。この子は昔、ある城において、私を捨てて逃走してしまったのです。そして、あちこち彷徨って五十年以上も苦しい生活をし、巡り巡って私のこの城に帰ってきたのです。これは本当の我が子です!私は本当のその父です!私の財産はすべてこの子に譲り与えます。これから私の仕事はすべてこの子が受けついて参りますので、後はどうかよろしくお頼み致します。」
この言葉を聞いて窮子は大変喜んだのと同時に、次のように考えました。
「私は元々願ってもいなかったのに、宝の蔵が自然に私の所にやってきた」

(長者窮子の譬え・解説)
この長者とは、即ち、これ如来です。窮子とは、私たち衆生の事です。そして、この窮子が父を捨て放浪した苦しい生活とは、仏法を知らず無明の闇の中にいたために、何が正しいか分からず間違っているものを信じ、苦しみ続けていた魂の歴史の事です。そして、長者が窮子に対して、糞はらいをさせられた事は、私たちが無知であるために身に付けてしまった様々な邪見の糞を取り除いていかれた事なのです。私たちは、仏法の教えによって様々な苦しみが取り除かれ、心が楽になっていくという賃金をもらうことによって、これが仏法でありこれが幸せなのだと満足しておりました。それは、私たちの心には、自我に対する深いとらわれがあり、自分の幸せを求める事ができても、自他にとらわれる心を離れて、相手の幸せを自分の幸せを願うように考える事が無かったからです。そんな自分の事しか考えない私たちを仏道修行の器ではないと決して見捨てられる事なく許して下さり、導いて下されたのです。また、長者の財産とは、これは大乗の教えである。大乗とは、大きな乗り物の事であり、それは、自分だけが幸せになったら良いという狭い心ではなく、また、まず自分が幸せにならなければというような自分を優先する心でもない、自他の区別なく、自分も周りの人たちも同じように幸せになってもらいたい。そんな大きな心になる。それが大乗であり、長者の財産なのです。窮子は長者のために、この財産の使い方を学んで、人にも分け与え教えを説く事はあったが、心からこの財産を求め、自分の物にしようとする気持ちはなかった。それは、私たちは自分の幸せしか考えられないものであり、自分の幸せと同じように他人の幸せを考えるような事はとても出来ないものだからです。そんな大乗仏教を求める気持ちのない私を、どうしたら自分にとらわれる気持ちを離れさせ、広い心にさせる事ができるか。仏様方は悩み、様々な方便をもって私たちを導いて下さったのだと思います。
仏様方の御苦労によって、私たちは最後には、自分は仏の子であったと自覚されるのです。仏の子とは、仏様の御心のままに生きていく存在の事であり、「自分、自分」と自分の事しか考えないちっぽけな心から離れて、「すべての人を幸せにしてあげたい」と思う広い心に出ること。それが、弥陀の本願海に入る事であり、そのような身になる事が仏様方の願いであり、また、この世に現れ仏法を説かれる目的でもあるのです。私たちは、このような心になりたいと思って仏教を求めていたのではなかったけれど、仏の願いが私たちの心に届き私たちを変えて下さるのです。

(正信偈に戻る)
「如来所以興出世 唯説弥陀本願海」とは、大無量寿経の
「如来、無蓋の大悲を以て三界を矜哀す。世に出興する所以は、道教を光闡し、群萠を拯い、恵むに真実の利をもってせんと欲してなり。」
(意味:仏様方は、すべての人をこれは罪深い者だから捨てよう、これは善人だから助けてあげようという差別がなく、すべての人の苦しみを取り除いてあげたいと思っておられる。仏様方がこの世界にあらわれた目的は、まず私たちの間違った考えを正していき、自分に対するとらわれから離れさせ、自分と同じように他人を見る事ができる。そんな仏様が味わうような幸せを味わわせる事によって、すべての人を救おうとされている事である。)
ここで、真実の利とは、真実の幸せの事で、それは自利利他の幸せ。つまり、他人を幸せにしていくままが、自分も幸せになれるという真実に気付き、本当の意味の幸せを言います。この真実が知らされるまでは、迷いの心によって目が曇り、自分と他人を切り分けて、自分の身を喜ばせる事が幸せだと思っていました。しかし、どんなに心の望むまま身を喜ばせたとしても、心がそれによって喜ぶことはなく、返って心は渇き、苦しむ事になってしまうのです。だから、私たちは、今までどんなに幸せになりたいともがき、苦しんだとしても、幸せになる事ができずに苦しみ続けてきたのです。この苦しみから離れさせてあげたい。そして、真実の幸せを知って頂きたい。それが仏様の願いであり、この世にあらわれた目的なのです。お釈迦様初め仏様方は、私たちに真実の幸せを知らせるために方便を説かれて、導かれたのです。方便を通らずしては真実へは入れない。方便についてどのような道を通って真実へ入るか説かれた教えが長者窮子の譬えなのです。そして、真実の世界について説かれた教えが大無量寿経であり、お釈迦様が方便の教えによって私たちを導き、いよいよ真実の教えを説く事ができる。その喜びを大無量寿経の最初に次のように教えられています。

(真宗聖典p14l1)
その時、世尊、諸根悦予し、姿色清浄にして光顔魏魏とまします。
尊者阿難、仏の聖旨を承け、即ち座より起ち、偏に右の肩を袒ぎ、長跪合掌して、仏に白して言さく、
「今日、世尊、諸根悦予し、姿色清浄にして光顔魏魏たること、明浄なる鏡の影裏表に暢るが如し。威容顕曜にして超絶すること無量なり。
未だ曾て殊妙なること、今の如きを瞻覩せず。唯然なり。大聖、我が心に念言すらく、
「今日、世尊、奇特法に住したまへり。今日、世雄、仏の所住に住したまへり。今日、世眼、導師行に住したまへり。今日、世英、最勝道に住したまへり。
今日、天尊、如来の徳を行じたまへり。去・来・現の仏、仏と仏と相念じたまへり。
今の仏も諸仏を念じたまうこと無きことを得んや。何が故ぞ、威神光光たる乃ししかるや」と。
是に於いて世尊、阿難に告げて曰く、「云何ぞ阿難、諸天の汝を教えて来して仏に問わしむるや、自ら慧見を以て、威顔を問えるや。」
阿難、仏に白さく、
「諸天の来りて我に教うる者あること無し、自ら所見を以て、この義を問いたてまつるのみ」
仏の言わく、
「善いかな阿難、問える所、甚だ快し。深き智慧を発し、真妙の弁才を以て、衆生を愍念せんとして、この慧義を問えり。
如来無蓋の大悲を以て三界を矜哀す。世に出興する所以は道教を光闡し、群萠を拯い恵むに真実の利を以てせんと欲してなり。
無量億劫にも値い難く見難し、霊瑞華の時あって時に乃ち出づるが如し。今問える所は饒益する所多し。
一切の諸天人民を開化す。阿難、当に知るべし。如来の正覚は、その智量り難く、導御するところ多し。慧見無碍にして能く遏絶することなし。
一餐の力を以て能く寿命を住むること、億百千劫無数無量にして、復、此に過ぎたり。
諸根悦予して以て毀損せず、姿色変ぜず光顔異なること無し。所以は何ん。
如来は定慧究暢して極まりなく、一切の法に於いて自在を得たり。
阿難、諦に聴け、今汝が為に説かん」と。
対えて曰さく、「唯然り、願楽して聞かんと欲す。」

 その時、お釈迦様は喜びの心が体中からあふれ、そのお姿は大変清らかで穢れなく、また、お顔はキラキラと輝いていた。阿難尊者はお釈迦様のそのような素晴らしい御様子を見られて、その場から立ち、着物の右肩を脱いで、長くひざまずき、お釈迦様に対して合掌して尋ねられました。
「今日のお釈迦様は喜びが全身からあふれ、そのお姿は大変清らかで、お顔がキラキラと輝いております。それはまるで曇り一つない鏡が世界をありのままに映すように、お釈迦様の心がそのまますがたにあらわれているように感じます。そのお姿はこの世を超えた無量のお徳のために私の目には光輝いているように見えます。私はずっとお釈迦様のおそばで仕えていますが、このような素晴らしいお姿になられた事は、今までありませんでした。お釈迦様、これは私が感じた事ですが、「お釈迦様がこのような素晴らしいお姿になられたのは、今日、大変珍しい素晴らしい教えが心にとどまっているからであり、今日、仏がその身に宿っているからであり、今日、世界をありのままに見る目を持たれて人々を正しい道へと導いて下されるからであり、今日、最も素晴らしい道を進んでいるからであり、今日、仏の徳を身に備えられたからだと思います。三世の諸仏がご説法の時、後の仏様は過去に現れた仏様を念じて法を説かれるという事であるが、今、お釈迦様も諸仏方を念じておられるに相違ないと思います。そうでなければ、このような威神極まりないお姿になられる事はあるはずがありません。」
これに対し、お釈迦様は
「阿難よ。そなたが今尋ねた事は、誰かがそなたを通して私に聞いてもらいたいと言われたものか?それとも、そなた自信が感じた事を私に聞いたのか?」
と阿難に尋ねられました。
阿難は、
「これは誰かが私を通して聞いたものではありません。私自身が見て感じた事を尋ねたのです。」
と答えられました。
この答えを聞かれたお釈迦様は、
「素晴らしい事だ、阿難よ。大変良い質問をした。このような質問ができたのも、日頃から人々をあわれみ思う気持ちで、相手を正しく見ようとし、教えを説いてきたからであろう。仏というのは、あの人は罪が重く助けるのが大変だからとか、この人は教えを素直に聞いてくれる人だからという事で、相手を差別する事なく、平等の慈悲で迷いの世界で苦しむ人々をあわれみ救おうとされている。その仏様がこの世にあらわれ仏教を説かれる目的は、私たちの心を成長させるために、まず方便の教えを説き、それによって私たちを導き、最終的に真実の幸せである自利利他を知らせる事によって、私たちを救おうとされているからである。私は今まで方便の教えを説き、この日が来るのを、ずっと待っていたのだ。いよいよ真実の教えを説く事ができる。それは何と嬉しい事なのだろう。この真実の教えとは、形だけ聞くのはたやすいことだが、その心を理解して聞く事は、三千年に一度しか咲かない霊瑞茸の花が咲く時に生まれるようなもので、無量億劫かかっても会う事も見る事もできないようなものなのである。今、そなたが質問してくれたお蔭で、私は真実の教えを説く事ができる。この教えには大変な功徳があるので、すべての人がこの教えによって迷いが破られ、浄土へ往生する事ができるであろう。阿難よ、よく知りなさい。仏を仏たらしめている仏のさとりというのは、その智慧は人間の智慧をはるかに超えているものであり、また、その智慧によって多くの人々を導く事ができる。また、智慧の眼は煩悩の雲を貫き真実を明らかにするので、智慧によって”本当の幸せは自利利他である”と知らされた仏様の活動を妨げられるものは何もない。それは譬えるのなら、僅か一食の力によって永遠の命を保つようなもので、一つの真理が知らされる事によって、仏の菩提心を金剛のものにしてくれるのである。その道は、喜びながら進み、どんな困難に会おうとも崩れる事はない。苦しみの余り、顔色が悪くなったり身体がこわばったりするような事はなく、いつも青空のように心明るく元気に過ごす事ができるのである。それは何故かと言ったのなら、仏というのは仏性の光が太陽のように常に我が身を照らし、真実を知らせてくれるからである。だから、道を誤り悪循環に陥って苦しむ事はないし、心が穢れて無性に欲を満たしたくなって心を悩ませたり、思い通りにならない事があって怒りを起こしたりする事もないからである。阿難よ、よ~く聞きなさい。今、そなたのために私をこのような身にしてくれた仏性の働きについて説きましょう。」
それに対し阿難は答えました。
「私も喜んで聞かせて頂きます。」

このようにして説かれたのが、阿弥陀仏の本願なのです。

五濁悪時群生海 応信如来如実言

世の中が欲に流れ、苦しみを誰かのせいにし、努力せずして楽に結果を求める事ばかり考えている人たちであふれている。そんな時代に生まれてきた人たちよ。まさに仏様の如実の言葉を信じなさい。
まず、五濁とはどのような意味なのかと言いますと、五濁とは、劫濁・見濁・煩悩濁・衆生濁・命濁の五つの濁りの事です。
まず劫濁とは、時代そのものが濁る事を言います。戦争や争いの絶えない時代を暗い時代と言いますが、それは時代そのものが暗い訳ではなくて、その時代で生きている人たちの心が暗いのです。同じように劫濁とは、その時代で生きている人たちの心が濁っている状態を言います。心が濁ると大事なものが見えなくなる。そして、たいして価値のないものなのにとても大事なもののように思えたり、それを求めて争ったり、命を落としたりする事もあります。大無量寿経には、これを「世人薄俗にして共に不急の事を諍い」(世の中の人は智慧がないために、本当はそんなに急ぐ事はないのに、欲が起きるとそれが今すぐ欲しくなって、人と争ってまで手に入れようとする)と教えられていますが、まさに今の時代はみんな欲に流され、欲のために振り回され、欲を満たす事が幸せだと思ってみんな求めています。このような時代を仏教では劫濁と言います。
では、なぜこのように時代が濁ってしまうのかと言えば、私たちの考え方が仏教から外れて濁っているからです。仏教ではこれを見濁と言います。見とは、私たちの物の見方や考え方、また、思想の事です。その思想が濁るとは、「人間として成長する事よりも、楽をする事や思い通りになる事が、人生として成功であり幸せなんだ」と思う事です。もちろん、本心を言えば誰だって楽がしたいと思っています。しかし、道徳をしっかりと身に付けた人なら、そのような相手の事を考えない身勝手な言動は人間として恥ずべき言動だと感じるのですが、思想が乱れ道徳が廃ると、人間として成長する事よりも、「とにかくこの世は金だ。金があれば幸せになれる」と信じてブランド物に身を包み、高級な車に乗って贅沢な暮らしをする事に憧れて、金持ちを成功者と崇め立て、そのような人間になる事が理想的な生き方なんだと多くの人が信じています。このように、考え方が欲へ欲へと流れていく事を見濁と言います。
そして、私たちの思想が乱れると、世の中に欲望を掻き立てる物が増えていきます。これを煩悩濁と言います。各地にパチンコ店が建ち並び、世界ではカジノが作られる。企業は次から次へと私たちの欲望を満たすものを提供し、私たちはそれを手に入れる事によって身を喜ばせている。世の中とは、欲望の大きな渦の中に飲み込まれているものだと思います。
その中で、私たちはいつも欲望に心を掻き立て、無限の欲望を満たそうと金を求め、金のために働き、その金によって縛られ、金の奴隷となっている。その中で、金を使って人を思い通りに動かしている人もいれば、その金によって縛られ苦しんでいる人もいる。でも、縛る人も縛られる人も変わらないのは、思い通りになったら幸せになれるという思い。この欲望を求める人の流れを衆生濁と言います。
欲望は無限。それに対し、私たちの求めているものは限られている。必然的に争いが起きる。勝つか負けるか。勝った者は負けた者を思い通りに動かし、負けた者は勝った者に対して恨みを懐きながらも従っていく。勝った者は人を思い通りに動かせる代償に、勝ち続けていかなければならない。どんなに勝ち続けてきたとしても、負けてしまえばすべてを失う。その不安は、人を血も涙もない残忍な怪物へと変えていく。そして、その欲望の渦に巻き込まれた人たちは、不安のためにいつも心が渇き、欲という塩水を飲んで心を潤そうとするが、その塩のためにさらに心が渇き、果てしなく欲望を追いかけ続ける。そして、私たちが欲望を追いかけ、求めれば求めるほど、私たちの命はその欲望のために真っ黒に染まっていく。これが命濁。
一度命が黒く染まると、私たちの心は常に不安や苦しみで満たされる。その苦しみを誤魔化そうと欲望に走るので、ますます私たちの命は穢れ、苦しみが強くなる。私たちが今、楽しみと呼んでいるものは、苦しみを一時的に誤魔化している間の快感であって、苦しみが大きければ大きい程、快感も大きいので、私たちはより大きな快感を求めて苦しみの底へと落ちていくのである。これが五濁です。このように、世の中が五濁に染まってしまう事を五濁悪世と言います。
では、次に五濁悪世の中、生きている私たちに対して、「まさに如来如実の言を信じなさい」と言われていますが、これはどういう意味なのでしょうか?この事について、教行信証信巻に次のように教えられています。

(真宗聖典p322r3)
又言わく、如来の功徳は仏のみ自ら知ろしめせり。唯、世尊ましまして能く開示したまう。
天・龍・夜叉の及ばざる所なり。二乗自ら名言を絶つ。
若し諸の有情、まさに作仏して、行普賢に超え彼岸に登るとも、一仏の功徳を敷衍せんに、時、多劫の不思議を逾えん。
是の中間に於いて身は滅度すとも、仏の勝慧は能く量ることなけん。
是の故に信聞及び諸の善友の摂受を具足して、是の如きの深妙の法を聞くことを得て、当に諸の聖尊に重愛せらるることを獲べし。
如来の勝智は虚空に遍し、所説の義言は、唯仏のみ悟りたまえり。是の故に博く諸智土を聞きて、当に我が教、如実の言を信ずべし。
人趣の身得ること甚だ難し、如来の出世遇うこと亦難し、信慧多き時、方に乃ち獲ん。是の故に修せん者、応に精進すべし。
是の如きの妙法、已に聴聞せば、常に諸仏をして喜びを生ぜしめたてまつるなり、と。抄出す。

 弥陀の本願海に収まっている功徳は、ただ無明を破り、弥陀を見る事ができた初地のさとりを開いた人にしか知る事はできない。ただこの世に初地に入った菩薩が現れてこそ、その功徳を教えに変えて、説き示す事ができる。この方を善知識と言い、どんなに姿形は善知識の格好をしていても、初地のさとりを開いていない人にはマネする事ができないのである。また、自分の苦しみを解決する事以外に考えていない声聞や縁覚にとって、自他の区別のない仏の世界を理解する事は、とてもできない事である。もし、仏の世界に入った菩薩が現れて、その知らされた真理によって、自利利他を実践して、頭だけでなく、本当に意味で自他の区別のない、本当の意味で平等な世界に出たとしても、その知らされた世界を説きあらわす事は、途方もない程の長い時間をかけたとしてもできない。だから、善知識の教えを信じて聞き、自分の心を支えてくれる善き友達に助けられて、弥陀の本願海から流れる功徳を聞く事によって受け取る事ができるようになった人は、まだ、弥陀の本願海を見る事ができなかったとしても、大悲の風に流されて浄土へと運ばれるようになる。阿弥陀仏はどのように導こうとされているのか。それを智慧のない私たちが理解する事はできない事であり、善知識が説かれている教えの本当の心はただ仏様だけが知る事ができる。だから、弥陀のお力によって流された人は、善知識の説かれる教え、また、我が身にやってくる様々な現実が知らされるご縁を信じ、我に対するとらわれから離れていきなさい。人身受け難し、仏法聞き難し。余程の阿弥陀仏とのご縁が無かったならば、生まれ難い人間に生まれ、聞き難い仏法を聞く事は無かったであろう。だから、今、善知識に会い、教えを聞き、我から離れている自分を実感している者は、頑張って求めなさい。それは、まだ弥陀の本願海は見る事はできないが、そこから流れてくる功徳を説法や聴聞を通して受けている人であり、本願海へと流される事を常に諸仏方も喜んでおられるのです。
以上の事から、正信偈の意味は、「五濁悪世で苦しむ人々よ。善知識の説かれる教えを信じ、弥陀の浄土へと流す働きを信じて、我を離れていきなさい」という事になります。

/div>教行信証 解説

  1. p267-278
  2. p279-284
  3. p287-298
  4. p300-304
  5. p305-313
  6. p314-正信偈途中
  7. 正信偈 十二光
  8. 正信偈
  9. 正信偈
  10. 正信偈
  11. 正信偈
  12. 正信偈
  13. 信巻
  14. 信巻

8.正信偈-応信如来如実言

本願名号正定業 至心信楽願為因 成等覚証大涅槃 必至滅度願成就

阿弥陀仏の「すべての人を浄土へ往生させたい」という願いによって現れた善知識(名号)には、私たちを浄土(正定聚)まで導く力がある。そして、阿弥陀仏のお力によって浄土へ往生したならば、その浄土には煩悩を滅し、心を浄化していく功徳が成就しているので、どんな人も仏のさとりを開く所まで進むことができるのである。

如来所以興出世 唯説弥陀本願海

ここで如来とは、釈迦だけでなく、大宇宙のすべての仏様の事。その仏様方がこの世に現れ仏教を説かれる目的は何かと言いますと、それは、ただ一つ弥陀の本願海まで私たちを導くために教えを説かれたのです。では、弥陀の本願とは何かと言いますと、「すべての人を浄土へ往生させたい」という願いの事です。弥陀の本願海とは、この願いに満たされた海であり、この本願海に入った者は阿弥陀仏と同じように「すべての人を浄土へ連れて行きたい」という願いが、その人の心に起きてくるのです。誰だって他人のために苦労したい人はいません。本心を叩けば、自分の幸せしか考えられないものが私たちであり、自分が苦しんでも他人を助けたいと思う気持ちのないものなのです。そんな自分の事しか考えられないものを「全ての人を助けてあげたい。そのためなら、自分がどんなに苦しんだとしても構わない」そんな気持ちに変える事ができるだろうか?大宇宙の諸仏方はそこに悩まれ、人々に教えを説き、導かれたのです。では、お釈迦様はどのように私たちを導かれたのか?その事について譬えられた長者窮子という話がありますので、その話を通してお釈迦様がどのように導かれたのか明らかにしたいと思います。

(長者窮子の譬え)
たとえば、次の様な年老いた長者がおりました。彼は白のような邸宅に住み、金・銀・琥珀・珊瑚など計り知れない程の財宝を持っておりました。その長者は多くの召使いや家来を使い、本国はもとより他国の商人も大勢出入りする繁盛ぶりでした。また、あらゆる人々から尊敬され、国王からも信頼されておりました。しかし、長者には大きな悩みがあったのです。それは、五十年前に家出をした息子の事だったのです。長者は息子の事を心配して、地元の警察に頼んだり、私立探偵を雇って探させたりしましたが、一向に見つかりませんでした。
「このまま息子が見つからなければ、いくら財宝が倉庫に満ち溢れていても、私が死んでしまえば財宝は散らばり失われてしまう。せめて息子が見つかったならば、どれだけ心が休まるだろうか」
と悩んでおりました。一方、息子の方は生活に困窮し、乞食をしながら何とか生き長らえていました。自分が長者の息子だった事も忘れ、自分の事を誰も大事に思っている人などいないのだろうと思いながら、気の向くまま身の向くまま、今日は北へ明日は東へと歩いていました。そんなある日、窮子はたまたま長者のいる町へやってきました。そして、その町を歩いていると、中でも一際立派なお城のような建物があったので、そこへ行きました。窮子は建物の外から中の様子を窺いながら、こう思いました。
「すごいなぁ…、まるでお城のようだ!きっと王様のような人が住んでいるに違いない。私のような者はとても雇ってもらえる所ではないな。待てよ…。それどころか、こんな屋敷じゃ見つかったら奴隷にされ強制的に働かされるかもしれない。こんな所に長居は無用だ。くわばら、くわばら。」
そう思って見ていると、たまたま獅子の座に腰掛けている長者とバチッと目が合いました。窮子は何も気付きませんでしたが、長者は五十年という月日が過ぎて姿形は変わってしまったが、あそこにいるのは紛れもない私の息子。すぐに近くにいた人を呼び
「あの者を私の所まで連れてくるのだ」
と頼みました。そこで、使いの者が窮子の所まで走っていき、捕えて長者の元まで連れて行こうとすると、窮子は驚き
「私は何も悪い事をしていないのに、どうして捕えられなければならないのですか」
と大声でわめきながら抵抗したので、使者は窮子を捕えるのにますます厳しく強く引き、業因に連れていこうとしました。この時、窮子は
「何の罪もないのに私と捕えるという事は…。これは必ず殺されるに違いない」
と思い、あまりにも恐怖のために気絶してしまいました。長者は遠くからこれを見ていて使者に告げました。
「もう良い。その者は必要ない。無理に連れてくる事はない。水を顔にかけて目を覚まさせておくれ。また、その者と話してはならない」
と。長者がこのように言ったのは、窮子が長い間に心が下劣になり、このまま私に会っても溝が深まるばかりで、とても私の持っている財産を受け取ってもらえないと思ったからです。そして、この子を導くために方便として、他人に「この子は我が子である」とは語りませんでした。使者は窮子に対し
「俺は、今、お前を放すから、好きなようにするとよい」
と告げました。それを聞いた窮子は、ホッとして長者のいる町を離れて貧しい村へ行って、衣食を求めました。その時、長者は自分に背を向けて離れていく窮子を見ながら悲しみで胸が一杯になりました。そこで、何とかして窮子を手元に置きたいと思い、方便を設け、密かに姿や顔色が憔悴した威徳のない二人の者を窮子の所に遣わす事にしました。長者は二人の使者に命じました。
「お前たち、窮子の所へ行き、『こちらに仕事がある、今のお前の賃金の倍を与えよう』と話しなさい。その話を聞いて、窮子がもしそうしたいと言えば、連れてきて働かせなさい。そして、どんな仕事をするのか聞かれたならば、『お前を雇うのは糞を取り除く仕事をしてもらうためだ。俺も一緒に働くから、お前もどうか?』と穏やかに話して誘いなさい。」
そこで二人の使者はすぐに窮子を求めて出発し、貧乏人の住む地方に行き窮子を見つけ、
「お前に良い話を持ってきたんだ。どうだ?俺達と一緒に糞はらいをしないか?金は二倍出すぞ」
と誘いました。窮子はその話を聞き、
「よ~し、分かった。働くから先に金をくれ」
と賃金を先取りし、共に糞を取り除く作業を始めました。
ある時、やつれた身体で全身糞にまみれながら仕事をしている窮子を長者が見られ、あわれに思い、何とか近付きたいと思われました。そこで、窮子に近付くために瓔珞(ようらく)(金・銀などの宝珠を紐で連ねた装身具)と細くて柔らかな糸で織られた上等の服と厳飾する飾り具などを脱ぎ捨て、粗末で汚れた服を着、さらに鹿土を身体にふりかけ、右手に除糞の道具を持って、使用人たちに
「お前たち、一生懸命に働きなさい。怠けて休んではいけないよ」
と話しかけました。そして、窮子に対しても
「やぁ、お前か。お前はいつまでもここで働きなさい。ここを離れて他の所へ行くのではないぞ。お前の賃金は段々と上げてやるから。また、台所には様々な必要な物を置いている。盆・器・米・麺・塩・酢などがそこにある、遠慮なく使うとよい。また、年老いて弱った使用人がいる。必要な物はお互いにやり取りしなさい。そして静かな心になりなさい。おまえは今までギブ&テイクの心で生きてきた。それは、他人の役に立たなければ見捨てられるのではという不安を生み出し、他人の幸せを見ては妬みや嫉妬の心を起こしてきた。だから、お前は自分を認めてもらえる人を探し、常に人の顔色を見ながら動き回っていたのだ。ここの人たちを信じなさい。そして、役に立たないからと言って、冷たく接したり見捨てたりするような事はやめなさい。お前が必要としている物は十分にあるのだから、整理をして、まず自分にとって必要な物はどれだけか知りなさい。不足は、物が無いからではなく、心から来るのだ。どれだけ物が溢れていても、自分にとって必要な物が分からない人は常に物が無くなったらどうしようという不安を抱え、物やお金を集める事に必死になっている。しかし、整理をしなければ、自分にとって必要な物が分からず、必要と思える物がどんどんと増えていく。お前にとって本当に必要な物は、今必要な物だけだ。未来に対する不安に対して備えようとしたら、使うかもしれない物がどんどん増えていき、いくらお金や物があっても足りなくなってしまうのだ。皆が未来への不安を無くそうと物やお金を自分の元へかき集めようとするから、物やお金が不足するのだ。物やお金をかき集めようとしなければ、不足する事もないし、不安になる事もない。来るかどうかも分からない未来のために、いつか使うかもしれない物を取っておくことは、いたずらに不安をかき立てるだけだ。それは、安心しようとして動けば動くほど、心は不安に満たされていく。まずは、自分にとって必要な物は必ずやってくると信じなさい。この必要な物とは、今の自分にとって必要な物であり、確実に使う物だけだ。そして、考える事を今に集中させなさい。人間とは、実際にはやってこない未来の事を考えて、喜んだり、恐れたり不安になってばかりいる。そして、その事に膨大な時間やお金を費やし、肝心な事には全く目を向けようとはしない。だから、私たちはいつも時間やお金に追われ、不安を解消しようと、果てしなく欲望を満たすために時間を費やし、また、お金や物を求める事になるのだ。よく考えなさい。お前にとって本当に大事な事は、物やお金をかき集める事ではない。不安を無くし、心から穏やかな日々を送る事なのだ。そのために、整理をして、本当に自分にとって必要な物に気付きなさい。また、役に立たなくなったからと言って見捨てる事はやめなさい。人を見捨てると、今度は自分が見捨てられるのではないかという不安が起きてくるからだ。その不安は、見捨てられないために役に立とうとしたり、良い顔をするような心を生み出し、常に動いていないと不安になってしまう。これでは、いつまで経っても不安は消えることなく穏やかになることもない。まずは、ここにいながら、心が穏やかになれるように努めなさい。そして、これから先は、嘘をついたり、人を騙したり、恨んだり、陰口を言ったりしてはなりませんよ。なぜなら、これらの心は現実の苦しみを誤魔化し、逃げるものであるからだ。この様な心に支配されている間は、心の成長が止まり、いつまでも弱い心のままなのだ。お前には苦しみに対して目をそらさず受け止めていけるような、人間として強い人になってほしい。それは、外に対して強く見せるような見せかけの強さではなく、現実を受け入れる心の強さの事だ。お前が人間として成長する事を望むのなら、私はこれからお前を実の子のように取り扱う事にしよう。」
その後、長者は字名を作り、息子としました。その時、窮子はこの事を喜んだけれども、自分はよそ者の使用人で、下賤な身分の者だと思っていました。これは、窮子の心には「自分は醜く汚いので、そのままの自分では他人は自分の事を迷惑に感じてしまうのでは」と思っていたからです。だから、「他人から好かれたい、そばにいてほしい」と思いながらも、無意識のうちに自分から離れてしまい、結果的には孤独になってしまっていたのである。
「他人に認めてもらおうと無理をしたり、良い顔をしたりするから、心に糞のような汚いものがたまるのだ。それが自分の心を醜くさせ、人から離れさせ壁を作り、自分を孤独にさせてしまう。だから、糞はらいを通して、自分の心の糞を取り除いていく事が必要なのだ。」
窮子は、長者の言葉を聞き、真面目に糞はらいを二十年間続けました。その頃になると、窮子も長者の心を理解し、信頼するようになり、人からも慕われるようになりました。そんな窮子を見られ、長者はこう思われました。
「初めは、我が強く、欲に流れ、楽ばかり求め、人の見ている所では頑張るが人が見ていない所では怠ける。そんな者であった。また努力せずして得られる物ばかり求め、コツコツと積み上げて得られるものに価値を置いていなかったが、糞はらいを続けていくことによって、お金さえあれば買える物に対する魅力が薄れ、人間として成長することの素晴らしさが頭だけでなく、身体を通して知らされたようだ。人の見ている所では頑張って、心の中では楽を求めている時は、損得勘定や利害打算で動いて、人から信用される事もなかった。しかし、人間として成長していく素晴らしさを知った今は、人が見ているとか見ていないとかに関係なく、自分のためにやっていこうという気持ちになって行動している。だから、人からも信用されるのだろう。また、私の話を都合を入れずよく聞き、その通りに実行するようになった。初めは、話を聞いている時は殊勝そうに聞いていても、自分の考えに合わない所は疑問を起こして聞く事なく実行しない。そんな我の強い者であったなぁ。ここまで来るまでには、長い道のりがあった。段々と話を聞く耳を持つようになり、教えを受け止められるようになると、自分の考えと合わない所が見えてきて、反発してきたこともあった。あの時は大変だった。私の悪い所ばかりを探しては攻撃し、私から話しかけても聞いてくれない事もあった。またある時は、苦しみのあまり「ここに来たからこのようになったんだ」と思って恨みをぶつけられる事もあった。あの時はきっと、窮子も心の中では、元の自分の殻に閉じ籠っていい顔をしたいなと思ったり、それでも最後には死んでいかなければならないと思うと逃げれないと知らされ、苦しいので、その苦しみから私に対して恨みをぶつけたいという気持ちになったり、それでも、教えを聞くと前に進むしかないと思って、自分の我を修正して教えを受け入れたりして、ぐるぐると回っていたのだと思う。よくぞ、その苦しみの中から、もう逃げられないと知らされ、前に進むしかないと疑いを破り、信を得る事ができたものだ。信を得る事によって、私の心と通じ合う事ができるようになったのだろう。」
そして、長者の邸宅に出入りするのに、何のはばかりもなくなりました。しかし、窮子の寝起きする所は、依然として最初の場所のままでした。それを見られて長者はこう思われました。
「窮子は穢れの離れた浄らかな世界へと進み始めているのだが、穢れた世界から離れようとすればするほど、故郷を慕う人のように、今までいた世界に対して執着してしまうのだろう。いつかは離れていかなければならないと知っているからこそ、少しでも留まっていたいと元々いた所にしがみついているのだろう。こう思うことも仕方の無い事だ。」
その後、長者は病気になりました。そして、窮子を呼び語りました。
「私はもう年を取り過ぎて、そう長くは生きられない。私は今、多くの金・銀、また珍しい宝を持っており、蔵の中に満ち溢れている。その財宝を正しく人に与えていったらいいか、それに必要な多くの知識をお前は悉く知っている。どうか私の心の全てを体得してほしいのだ。何故かと言えば、私もお前と同じような立場に立ったことがあるからだ。どうか、未来にこの宝が無くなってしまう事がないように気を付けて欲しいのだ。」
その時、窮子はすぐに教えを心に刻み、金・銀、珍しい財宝など、多くの物を受け取りました。しかし、あくまでも生活は自分が稼ぐことにより生きていこうと思っており、財宝によって自分の生活を支えていこうという気持ちはありませんでした。しかも、窮子の寝泊りする場所は以前と変わっていなかったし、自分の事しか考えられない狭くて下劣な心も、未だ捨て切れてはいませんでした。さらに時が少し経って、窮子は自分の事ばかり考えるのではなく、相手の幸せも考えられる広い心を持つことの素晴らしさを悟り、長者の進んできた道こそ自分もいつかは進んでいかなければならないと思うようになり、今まで自分の事しか考えなかった心を賤しむようになりました。しかし、どんなに長者の導きによって窮子の心が長者の心に近付いたとしても、窮子の心の中には、
「長者は私を導いてくれた人、私は長者に導かれた人。だから、私は長者がいてこそ導く事が出来るのであり、私はどんなに頑張っていたとしても、長者のようにはなれない」
窮子の心には、そんな越すに越せられぬ深い溝があったのです。長者はそんな窮子を見られ、
「このままでは、私が生きている間は、宝は残っても私が死んでしまったら、この宝は蔵だけを残し、中身は全部消えてしまうだろう。何とかしなければ。」
と思いました。そこで、長者の命が終わろうとした時に、窮子に親族・国王・大臣・クシャトリヤ・他の長者たちを集めるように命じました。そして、皆が悉く集まった所で長者は自ら宣言しました。
「皆さん、よく集まって下さいました。実は、私が死ぬ前にぜひ皆さんに知っておいてもらいたい事があるのです。皆さんに明らかにしておきます。ここにいる男は五十余年前に分かれた息子なのです。私の本当の子です。この子は昔、ある城において、私を捨てて逃走してしまったのです。そして、あちこち彷徨って五十年以上も苦しい生活をし、巡り巡って私のこの城に帰ってきたのです。これは本当の我が子です!私は本当のその父です!私の財産はすべてこの子に譲り与えます。これから私の仕事はすべてこの子が受けついて参りますので、後はどうかよろしくお頼み致します。」
この言葉を聞いて窮子は大変喜んだのと同時に、次のように考えました。
「私は元々願ってもいなかったのに、宝の蔵が自然に私の所にやってきた」

(長者窮子の譬え・解説)
この長者とは、即ち、これ如来です。窮子とは、私たち衆生の事です。そして、この窮子が父を捨て放浪した苦しい生活とは、仏法を知らず無明の闇の中にいたために、何が正しいか分からず間違っているものを信じ、苦しみ続けていた魂の歴史の事です。そして、長者が窮子に対して、糞はらいをさせられた事は、私たちが無知であるために身に付けてしまった様々な邪見の糞を取り除いていかれた事なのです。私たちは、仏法の教えによって様々な苦しみが取り除かれ、心が楽になっていくという賃金をもらうことによって、これが仏法でありこれが幸せなのだと満足しておりました。それは、私たちの心には、自我に対する深いとらわれがあり、自分の幸せを求める事ができても、自他にとらわれる心を離れて、相手の幸せを自分の幸せを願うように考える事が無かったからです。そんな自分の事しか考えない私たちを仏道修行の器ではないと決して見捨てられる事なく許して下さり、導いて下されたのです。また、長者の財産とは、これは大乗の教えである。大乗とは、大きな乗り物の事であり、それは、自分だけが幸せになったら良いという狭い心ではなく、また、まず自分が幸せにならなければというような自分を優先する心でもない、自他の区別なく、自分も周りの人たちも同じように幸せになってもらいたい。そんな大きな心になる。それが大乗であり、長者の財産なのです。窮子は長者のために、この財産の使い方を学んで、人にも分け与え教えを説く事はあったが、心からこの財産を求め、自分の物にしようとする気持ちはなかった。それは、私たちは自分の幸せしか考えられないものであり、自分の幸せと同じように他人の幸せを考えるような事はとても出来ないものだからです。そんな大乗仏教を求める気持ちのない私を、どうしたら自分にとらわれる気持ちを離れさせ、広い心にさせる事ができるか。仏様方は悩み、様々な方便をもって私たちを導いて下さったのだと思います。
仏様方の御苦労によって、私たちは最後には、自分は仏の子であったと自覚されるのです。仏の子とは、仏様の御心のままに生きていく存在の事であり、「自分、自分」と自分の事しか考えないちっぽけな心から離れて、「すべての人を幸せにしてあげたい」と思う広い心に出ること。それが、弥陀の本願海に入る事であり、そのような身になる事が仏様方の願いであり、また、この世に現れ仏法を説かれる目的でもあるのです。私たちは、このような心になりたいと思って仏教を求めていたのではなかったけれど、仏の願いが私たちの心に届き私たちを変えて下さるのです。

(正信偈に戻る)
「如来所以興出世 唯説弥陀本願海」とは、大無量寿経の
「如来、無蓋の大悲を以て三界を矜哀す。世に出興する所以は、道教を光闡し、群萠を拯い、恵むに真実の利をもってせんと欲してなり。」
(意味:仏様方は、すべての人をこれは罪深い者だから捨てよう、これは善人だから助けてあげようという差別がなく、すべての人の苦しみを取り除いてあげたいと思っておられる。仏様方がこの世界にあらわれた目的は、まず私たちの間違った考えを正していき、自分に対するとらわれから離れさせ、自分と同じように他人を見る事ができる。そんな仏様が味わうような幸せを味わわせる事によって、すべての人を救おうとされている事である。)
ここで、真実の利とは、真実の幸せの事で、それは自利利他の幸せ。つまり、他人を幸せにしていくままが、自分も幸せになれるという真実に気付き、本当の意味の幸せを言います。この真実が知らされるまでは、迷いの心によって目が曇り、自分と他人を切り分けて、自分の身を喜ばせる事が幸せだと思っていました。しかし、どんなに心の望むまま身を喜ばせたとしても、心がそれによって喜ぶことはなく、返って心は渇き、苦しむ事になってしまうのです。だから、私たちは、今までどんなに幸せになりたいともがき、苦しんだとしても、幸せになる事ができずに苦しみ続けてきたのです。この苦しみから離れさせてあげたい。そして、真実の幸せを知って頂きたい。それが仏様の願いであり、この世にあらわれた目的なのです。お釈迦様初め仏様方は、私たちに真実の幸せを知らせるために方便を説かれて、導かれたのです。方便を通らずしては真実へは入れない。方便についてどのような道を通って真実へ入るか説かれた教えが長者窮子の譬えなのです。そして、真実の世界について説かれた教えが大無量寿経であり、お釈迦様が方便の教えによって私たちを導き、いよいよ真実の教えを説く事ができる。その喜びを大無量寿経の最初に次のように教えられています。

(真宗聖典p14l1)
その時、世尊、諸根悦予し、姿色清浄にして光顔魏魏とまします。
尊者阿難、仏の聖旨を承け、即ち座より起ち、偏に右の肩を袒ぎ、長跪合掌して、仏に白して言さく、
「今日、世尊、諸根悦予し、姿色清浄にして光顔魏魏たること、明浄なる鏡の影裏表に暢るが如し。威容顕曜にして超絶すること無量なり。
未だ曾て殊妙なること、今の如きを瞻覩せず。唯然なり。大聖、我が心に念言すらく、
「今日、世尊、奇特法に住したまへり。今日、世雄、仏の所住に住したまへり。今日、世眼、導師行に住したまへり。今日、世英、最勝道に住したまへり。
今日、天尊、如来の徳を行じたまへり。去・来・現の仏、仏と仏と相念じたまへり。
今の仏も諸仏を念じたまうこと無きことを得んや。何が故ぞ、威神光光たる乃ししかるや」と。
是に於いて世尊、阿難に告げて曰く、「云何ぞ阿難、諸天の汝を教えて来して仏に問わしむるや、自ら慧見を以て、威顔を問えるや。」
阿難、仏に白さく、
「諸天の来りて我に教うる者あること無し、自ら所見を以て、この義を問いたてまつるのみ」
仏の言わく、
「善いかな阿難、問える所、甚だ快し。深き智慧を発し、真妙の弁才を以て、衆生を愍念せんとして、この慧義を問えり。
如来無蓋の大悲を以て三界を矜哀す。世に出興する所以は道教を光闡し、群萠を拯い恵むに真実の利を以てせんと欲してなり。
無量億劫にも値い難く見難し、霊瑞華の時あって時に乃ち出づるが如し。今問える所は饒益する所多し。
一切の諸天人民を開化す。阿難、当に知るべし。如来の正覚は、その智量り難く、導御するところ多し。慧見無碍にして能く遏絶することなし。
一餐の力を以て能く寿命を住むること、億百千劫無数無量にして、復、此に過ぎたり。
諸根悦予して以て毀損せず、姿色変ぜず光顔異なること無し。所以は何ん。
如来は定慧究暢して極まりなく、一切の法に於いて自在を得たり。
阿難、諦に聴け、今汝が為に説かん」と。
対えて曰さく、「唯然り、願楽して聞かんと欲す。」

 その時、お釈迦様は喜びの心が体中からあふれ、そのお姿は大変清らかで穢れなく、また、お顔はキラキラと輝いていた。阿難尊者はお釈迦様のそのような素晴らしい御様子を見られて、その場から立ち、着物の右肩を脱いで、長くひざまずき、お釈迦様に対して合掌して尋ねられました。
「今日のお釈迦様は喜びが全身からあふれ、そのお姿は大変清らかで、お顔がキラキラと輝いております。それはまるで曇り一つない鏡が世界をありのままに映すように、お釈迦様の心がそのまますがたにあらわれているように感じます。そのお姿はこの世を超えた無量のお徳のために私の目には光輝いているように見えます。私はずっとお釈迦様のおそばで仕えていますが、このような素晴らしいお姿になられた事は、今までありませんでした。お釈迦様、これは私が感じた事ですが、「お釈迦様がこのような素晴らしいお姿になられたのは、今日、大変珍しい素晴らしい教えが心にとどまっているからであり、今日、仏がその身に宿っているからであり、今日、世界をありのままに見る目を持たれて人々を正しい道へと導いて下されるからであり、今日、最も素晴らしい道を進んでいるからであり、今日、仏の徳を身に備えられたからだと思います。三世の諸仏がご説法の時、後の仏様は過去に現れた仏様を念じて法を説かれるという事であるが、今、お釈迦様も諸仏方を念じておられるに相違ないと思います。そうでなければ、このような威神極まりないお姿になられる事はあるはずがありません。」
これに対し、お釈迦様は
「阿難よ。そなたが今尋ねた事は、誰かがそなたを通して私に聞いてもらいたいと言われたものか?それとも、そなた自信が感じた事を私に聞いたのか?」
と阿難に尋ねられました。
阿難は、
「これは誰かが私を通して聞いたものではありません。私自身が見て感じた事を尋ねたのです。」
と答えられました。
この答えを聞かれたお釈迦様は、
「素晴らしい事だ、阿難よ。大変良い質問をした。このような質問ができたのも、日頃から人々をあわれみ思う気持ちで、相手を正しく見ようとし、教えを説いてきたからであろう。仏というのは、あの人は罪が重く助けるのが大変だからとか、この人は教えを素直に聞いてくれる人だからという事で、相手を差別する事なく、平等の慈悲で迷いの世界で苦しむ人々をあわれみ救おうとされている。その仏様がこの世にあらわれ仏教を説かれる目的は、私たちの心を成長させるために、まず方便の教えを説き、それによって私たちを導き、最終的に真実の幸せである自利利他を知らせる事によって、私たちを救おうとされているからである。私は今まで方便の教えを説き、この日が来るのを、ずっと待っていたのだ。いよいよ真実の教えを説く事ができる。それは何と嬉しい事なのだろう。この真実の教えとは、形だけ聞くのはたやすいことだが、その心を理解して聞く事は、三千年に一度しか咲かない霊瑞茸の花が咲く時に生まれるようなもので、無量億劫かかっても会う事も見る事もできないようなものなのである。今、そなたが質問してくれたお蔭で、私は真実の教えを説く事ができる。この教えには大変な功徳があるので、すべての人がこの教えによって迷いが破られ、浄土へ往生する事ができるであろう。阿難よ、よく知りなさい。仏を仏たらしめている仏のさとりというのは、その智慧は人間の智慧をはるかに超えているものであり、また、その智慧によって多くの人々を導く事ができる。また、智慧の眼は煩悩の雲を貫き真実を明らかにするので、智慧によって”本当の幸せは自利利他である”と知らされた仏様の活動を妨げられるものは何もない。それは譬えるのなら、僅か一食の力によって永遠の命を保つようなもので、一つの真理が知らされる事によって、仏の菩提心を金剛のものにしてくれるのである。その道は、喜びながら進み、どんな困難に会おうとも崩れる事はない。苦しみの余り、顔色が悪くなったり身体がこわばったりするような事はなく、いつも青空のように心明るく元気に過ごす事ができるのである。それは何故かと言ったのなら、仏というのは仏性の光が太陽のように常に我が身を照らし、真実を知らせてくれるからである。だから、道を誤り悪循環に陥って苦しむ事はないし、心が穢れて無性に欲を満たしたくなって心を悩ませたり、思い通りにならない事があって怒りを起こしたりする事もないからである。阿難よ、よ~く聞きなさい。今、そなたのために私をこのような身にしてくれた仏性の働きについて説きましょう。」
それに対し阿難は答えました。
「私も喜んで聞かせて頂きます。」

このようにして説かれたのが、阿弥陀仏の本願なのです。

五濁悪時群生海 応信如来如実言

世の中が欲に流れ、苦しみを誰かのせいにし、努力せずして楽に結果を求める事ばかり考えている人たちであふれている。そんな時代に生まれてきた人たちよ。まさに仏様の如実の言葉を信じなさい。
まず、五濁とはどのような意味なのかと言いますと、五濁とは、劫濁・見濁・煩悩濁・衆生濁・命濁の五つの濁りの事です。
まず劫濁とは、時代そのものが濁る事を言います。戦争や争いの絶えない時代を暗い時代と言いますが、それは時代そのものが暗い訳ではなくて、その時代で生きている人たちの心が暗いのです。同じように劫濁とは、その時代で生きている人たちの心が濁っている状態を言います。心が濁ると大事なものが見えなくなる。そして、たいして価値のないものなのにとても大事なもののように思えたり、それを求めて争ったり、命を落としたりする事もあります。大無量寿経には、これを「世人薄俗にして共に不急の事を諍い」(世の中の人は智慧がないために、本当はそんなに急ぐ事はないのに、欲が起きるとそれが今すぐ欲しくなって、人と争ってまで手に入れようとする)と教えられていますが、まさに今の時代はみんな欲に流され、欲のために振り回され、欲を満たす事が幸せだと思ってみんな求めています。このような時代を仏教では劫濁と言います。
では、なぜこのように時代が濁ってしまうのかと言えば、私たちの考え方が仏教から外れて濁っているからです。仏教ではこれを見濁と言います。見とは、私たちの物の見方や考え方、また、思想の事です。その思想が濁るとは、「人間として成長する事よりも、楽をする事や思い通りになる事が、人生として成功であり幸せなんだ」と思う事です。もちろん、本心を言えば誰だって楽がしたいと思っています。しかし、道徳をしっかりと身に付けた人なら、そのような相手の事を考えない身勝手な言動は人間として恥ずべき言動だと感じるのですが、思想が乱れ道徳が廃ると、人間として成長する事よりも、「とにかくこの世は金だ。金があれば幸せになれる」と信じてブランド物に身を包み、高級な車に乗って贅沢な暮らしをする事に憧れて、金持ちを成功者と崇め立て、そのような人間になる事が理想的な生き方なんだと多くの人が信じています。このように、考え方が欲へ欲へと流れていく事を見濁と言います。
そして、私たちの思想が乱れると、世の中に欲望を掻き立てる物が増えていきます。これを煩悩濁と言います。各地にパチンコ店が建ち並び、世界ではカジノが作られる。企業は次から次へと私たちの欲望を満たすものを提供し、私たちはそれを手に入れる事によって身を喜ばせている。世の中とは、欲望の大きな渦の中に飲み込まれているものだと思います。
その中で、私たちはいつも欲望に心を掻き立て、無限の欲望を満たそうと金を求め、金のために働き、その金によって縛られ、金の奴隷となっている。その中で、金を使って人を思い通りに動かしている人もいれば、その金によって縛られ苦しんでいる人もいる。でも、縛る人も縛られる人も変わらないのは、思い通りになったら幸せになれるという思い。この欲望を求める人の流れを衆生濁と言います。
欲望は無限。それに対し、私たちの求めているものは限られている。必然的に争いが起きる。勝つか負けるか。勝った者は負けた者を思い通りに動かし、負けた者は勝った者に対して恨みを懐きながらも従っていく。勝った者は人を思い通りに動かせる代償に、勝ち続けていかなければならない。どんなに勝ち続けてきたとしても、負けてしまえばすべてを失う。その不安は、人を血も涙もない残忍な怪物へと変えていく。そして、その欲望の渦に巻き込まれた人たちは、不安のためにいつも心が渇き、欲という塩水を飲んで心を潤そうとするが、その塩のためにさらに心が渇き、果てしなく欲望を追いかけ続ける。そして、私たちが欲望を追いかけ、求めれば求めるほど、私たちの命はその欲望のために真っ黒に染まっていく。これが命濁。
一度命が黒く染まると、私たちの心は常に不安や苦しみで満たされる。その苦しみを誤魔化そうと欲望に走るので、ますます私たちの命は穢れ、苦しみが強くなる。私たちが今、楽しみと呼んでいるものは、苦しみを一時的に誤魔化している間の快感であって、苦しみが大きければ大きい程、快感も大きいので、私たちはより大きな快感を求めて苦しみの底へと落ちていくのである。これが五濁です。このように、世の中が五濁に染まってしまう事を五濁悪世と言います。
では、次に五濁悪世の中、生きている私たちに対して、「まさに如来如実の言を信じなさい」と言われていますが、これはどういう意味なのでしょうか?この事について、教行信証信巻に次のように教えられています。

(真宗聖典p322r3)
又言わく、如来の功徳は仏のみ自ら知ろしめせり。唯、世尊ましまして能く開示したまう。
天・龍・夜叉の及ばざる所なり。二乗自ら名言を絶つ。
若し諸の有情、まさに作仏して、行普賢に超え彼岸に登るとも、一仏の功徳を敷衍せんに、時、多劫の不思議を逾えん。
是の中間に於いて身は滅度すとも、仏の勝慧は能く量ることなけん。
是の故に信聞及び諸の善友の摂受を具足して、是の如きの深妙の法を聞くことを得て、当に諸の聖尊に重愛せらるることを獲べし。
如来の勝智は虚空に遍し、所説の義言は、唯仏のみ悟りたまえり。是の故に博く諸智土を聞きて、当に我が教、如実の言を信ずべし。
人趣の身得ること甚だ難し、如来の出世遇うこと亦難し、信慧多き時、方に乃ち獲ん。是の故に修せん者、応に精進すべし。
是の如きの妙法、已に聴聞せば、常に諸仏をして喜びを生ぜしめたてまつるなり、と。抄出す。

 弥陀の本願海に収まっている功徳は、ただ無明を破り、弥陀を見る事ができた初地のさとりを開いた人にしか知る事はできない。ただこの世に初地に入った菩薩が現れてこそ、その功徳を教えに変えて、説き示す事ができる。この方を善知識と言い、どんなに姿形は善知識の格好をしていても、初地のさとりを開いていない人にはマネする事ができないのである。また、自分の苦しみを解決する事以外に考えていない声聞や縁覚にとって、自他の区別のない仏の世界を理解する事は、とてもできない事である。もし、仏の世界に入った菩薩が現れて、その知らされた真理によって、自利利他を実践して、頭だけでなく、本当に意味で自他の区別のない、本当の意味で平等な世界に出たとしても、その知らされた世界を説きあらわす事は、途方もない程の長い時間をかけたとしてもできない。だから、善知識の教えを信じて聞き、自分の心を支えてくれる善き友達に助けられて、弥陀の本願海から流れる功徳を聞く事によって受け取る事ができるようになった人は、まだ、弥陀の本願海を見る事ができなかったとしても、大悲の風に流されて浄土へと運ばれるようになる。阿弥陀仏はどのように導こうとされているのか。それを智慧のない私たちが理解する事はできない事であり、善知識が説かれている教えの本当の心はただ仏様だけが知る事ができる。だから、弥陀のお力によって流された人は、善知識の説かれる教え、また、我が身にやってくる様々な現実が知らされるご縁を信じ、我に対するとらわれから離れていきなさい。人身受け難し、仏法聞き難し。余程の阿弥陀仏とのご縁が無かったならば、生まれ難い人間に生まれ、聞き難い仏法を聞く事は無かったであろう。だから、今、善知識に会い、教えを聞き、我から離れている自分を実感している者は、頑張って求めなさい。それは、まだ弥陀の本願海は見る事はできないが、そこから流れてくる功徳を説法や聴聞を通して受けている人であり、本願海へと流される事を常に諸仏方も喜んでおられるのです。
以上の事から、正信偈の意味は、「五濁悪世で苦しむ人々よ。善知識の説かれる教えを信じ、弥陀の浄土へと流す働きを信じて、我を離れていきなさい」という事になります。

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