解脱の光輪際もなし

解脱の光輪際もなし 光触かふるものはみな 有無をはなるとのべたまう 平等覚に帰命せよ
解脱とは、苦しみから苦しみを生み出す苦しみの連鎖から抜け出すこと。私たちはまわりの人と比較し、どちらが上かどちらが下かを問題にして、上になる為に必死になって頑張り、下になると自分はダメな人間になってしまったかのように思って苦しむ。いつも上か下かにとらわれているから、いつも不安を抱えながら苦しみ続けている。そんな不安や苦しみの連鎖から抜け出し、上か下かにとらわれることなく、いつも穏やかな心でおれることを解脱と言います。
それはどんなに価値のあるものを手に入れて、それによって自分は価値のある人間になったとしても、無常によって手に入れた価値をすべて失うという真実を知らなければなりません。
無常が分かれば、どんな価値を手に入れたとしても、それは無いのと同じ。だから、元々無いのだから、失っても執着することもないし、手に入れても、そこに誇る気持ちがない。いつも穏やかな気持ちにさせてくれます。
阿弥陀仏の解脱の光明は、私たちに無常を知らせ、ローラーが大地を平らにしてゆくように、私たちの心を穏やかで静かな心にしてくれます。これが解脱の光輪です。
それが解脱の光輪によって果てしなく広がってゆくように、どんな人にも無常という真実が知らされ広がってゆく。
しかし、無常によって、すべての価値を失うと聞くと、私たちは何もかも失った自分には何の価値もないのではないか。そんな自分はすべてのものから見捨てられると不安になる。結局、私たちはなぜ価値を求めるのかと言えば、価値のあるものは無条件で大事にされると思うから、そして、自分に価値がある限り、見捨てられることはないと思って安心できるからです。
つまり、私たちは誰しも見捨てられる不安があり、その不安から価値を求め、自分は価値のある存在たから、見捨てられることはないのだと安心しているのです。
でも、無常によってどんな価値のあるものも失う。そんな自分はすべてのものから見捨てられるという不安を抱えて死んでゆかなければならないのです。だからこそ、私たちは見捨てられることへの不安があるから、価値のあるものに執着し、それを自分のものにして自信としなければ安心できないのです。だから、そんな私たちはどんなに無常と聞いても、自分の手に入れた価値だけは失うことはないのだと無常を否定し、有るか無いかを問題にしてしまうのです。
そんな私たちがどうしたら無常を受け入れ、有無を離れることができるか?
それは私のことを決して見捨てず、そばにいてくれる存在が必要なのです。その存在こそ、阿弥陀仏てあり、阿弥陀仏によって、いつも見守って頂く身になることを光触と言うのです。
つまり、私たちは阿弥陀仏に見守られる身になるからこそ、無常を受け入れ、価値のあるものが有るか無いかを問題にする有無を離れることができる。そして、価値のある人も価値のない人も平等に見ることができる平等覚を開くことができるのです。
これが解脱の光輪際もないのご和讃なのです。

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