苦しみはどこから来るのか2

“手を打てば 鹿は驚き 魚は寄る 茶店の女中は返事する”

という歌があるが、同じ手を打つという音でも、鹿が聞いたならば、猟師の鉄砲の音ではないかと思って逃げるし、魚は餌がもらえるのかと思って寄ってくる。また、茶店の女中ならば、お客さんから呼ばれたと思って返事します。

このような受け取り方の違いはどうして起きて来るのか?

それはその人の心の世界によって決まります。

例えば、鹿の場合で言ったならば、鹿の心の世界はいつ猟師によって打たれるか。そんな不安の中でビクビクしながら生きています。

だから、手を打った音でさえも、猟師に打たれるのではないかと思って逃げてゆくのです。

それに対して、同じ鹿でも、奈良公園の鹿ならば、猟師に打たれて殺される心配はないので、手を打っても逃げてゆくどころか、餌がもらえるのではないかと思ったよ近づいてきます。

このように私たちは自分の心によって世界を見てるので、同じ水でも、餓鬼のように苦しんでいる人から見たならば、自分を苦しめる火のように見えるし、天人のように幸せな心から見たならば、キラキラ輝く宝石のように映るでしょう。

このように同じものを見ても、その人の心の状態によって世界に見え型が違う。ちょうど青色の眼鏡で世界を見たならば、見えるものすべて青色に見えるように、赤色の眼鏡で世界を見たならば、赤色に見えるように、世界が赤色に見えたからと言って、それは見たものが赤色なのではなくて、自分が赤色の眼鏡をかけているから赤色に見えているかも知れないのです。

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