自分を変えるには

こんにちは上田です。
いつも読んで頂きありがとうございます。
『自分を変えるには』
念とは、自分の中で生み出した自分とは、こういう存在だと定義しているもの。私たちは一人一人自分とは、こういう人間だという念を持ち、常に潜在意識の中で念じ続けている。例えば、自分はまわりの人からいじめられる存在だと思っている人は、いじめられることがどんなに嫌でも、いじめられるように無意識のうちに動いてしまうし、まわりの人がいじめたくなるような雰囲気を生み出している。だから、その人に会うと頭ではいじめてはいけないと思っているのに、何となくいじめてしまう。また、反対に、自分は他人から大事にされるような人間だと思っている人は、まわりの人もこの人を大事にしてあげなければならないと、感じて大事にするのです。この念は無意識のうちに自分の中でイメージしている自分に近付いてゆこうとする。だから、仏を念じている人は、今はどんなに悪人でも仏のような人格に近付いてゆくし、悪人を念じている人は、どんなに表面的には善いことに励んでいたとしても、その性根は悪人のような人格になってゆくのです。
例えば、自分は駄目な人間だという念を持っている人がいるとして、その人は、自分は駄目な人間だと思っているので、自分の駄目な所、駄目な所を探して、私はこんな悪い所があるから駄目な人間なんだと思おうとします。そして、まわりの人も自分のことを駄目な人間だと言っているのではないかと不安になって、自分だけが駄目な人間だと言われないように、他人の駄目な所を探しては見下したり、その人がこんな駄目な所があるのに、自惚れて自分はいい人間なんだと思っている人は、その人の欠点を責めて、何とかして駄目な人間なんだと認めさせようとします。だから、自分は駄目な人間なんだという念を持っている人は、その念によって自分を駄目にするだけでなく、まわりの人も駄目にしてゆくのです。だから、自分は駄目な人間ではないと思っている人は、その人から離れ、やがて、その人のまわりには駄目な人だけが残るのです。自分は駄目な人間だと思っている人ほど、駄目な人間だと認めたくないものです。だから、木を隠すには森の中と言われるように、駄目な人たちに囲
まれることによって、駄目な人間だという現実を隠し、自分はできる人間なんだと自惚れていることができるのです。
では、このような人がどうしたら駄目な人間だという念から離れてゆくことができるのかと言いますと、自分は駄目な人間だと認めることです。自分を駄目な人間だと認める事ができたら、自分の欠点を探して、こんな悪い所があるから、自分は駄目なんだと思う必要が無くなります。何故なら、探さなくても自分は駄目な人間だからです。また、そんな駄目な人間と認められず、他人の欠点を探しては、あの人も駄目な人間だと見下すことも無くなるし、他人の良いところに対し、「あの人はこんなにも良いところがあったんだ」と心から敬うことが出来るようになります。そうすると、駄目な所を見なくなるので、自然と阿頼耶識の中に駄目な業が収まることが減ってゆきます。そして、他人の良いところを素直に認めることができるので、段々と自分がこんな人になりたいなあと思っているような人間に近づいてゆきます。
不思議な事ですが、自分は駄目な人間じゃないと認められない時は、どんどんと自分は駄目な人間へと近付いてゆき、反対に、自分は駄目な人間なんだと認めると、段々と駄目な人間から離れてゆきます。
たぶん、その人が駄目な人間なんだという念を持っているのは、どこかにこんな駄目な人間でも認めてくれる人がいるのでは、とありのままの自分を認めてくれる人を探しているからではないかと思います。
しかし、そのままの自分では、まわりの人たちは否定してくるので、何時まで経っても、こんな自分が存在していいか、どうかということに留まって、自分を向上させてゆこうと、物事を前向きに考えることが出来ないのです。
だから、自分の念を変えてゆく為には、駄目なら駄目で、このありのままの自分を認めてくれる人が必要です。しかし、現実的には、駄目な自分をそのまま認めてくれる人なんて存在しません。みんな、「こんな状態では駄目だよ。もっと頑張らないと」というようにそのままの自分を否定して、まわりの人から認められる良い人間にならなければならないと責めてくる人ばかりです。だから、まわりの人から責められない為に、また、見捨てられない為に、表面的には良い人間になろうと頑張りますが、心の奥底では自分は駄目な人間だと思っているので、ちょっとした壁にぶつかるとやっぱり自分は駄目な人間なんだと思って、諦めてしまうのです。
仏教では、このような自分をそのまま認めてくれる存在を善知識と言います。世の中の人は、こんな駄目な人間を責めることなく、そのまま認めたら、そのまま何もやらなくなって堕落してしまうのではないかと思って、どうしてもそんな人をそのまま認めることなんて出来ませんが、善知識だけは、その人を否定することなく、「そのままでいいよ。」と言ってくれるのです。
もちろん、そんなことをしたら今まで頑張ってきた人も頑張らなくなって堕落してしまうかも知れません。しかし、認めてあげることによって、やらなくなってしまう人は、もともと見捨てられない為に頑張り続け、心が疲れている人なのです。
だから、そんな人に今のままでは駄目だから、もっと頑張りなさいと励ますのは、酷なことです。まずは、最初のうちは何もやらなくなってしまうかも知れませんが、ゆっくりと心の休養をさせてあげることが必要なことなのです。
多くの人は駄目な人を見て、この人は遊んでいると思ってしまいがちですが、実際は身体はあまり動いていなくても、心はいつも駄目な自分を責めて、疲れているのです。そんな心が疲れている人を更に責めて、もっと頑張れというのは、真実が分かっている人から見たら、そんな可哀そうなことはありません。まずは、そんな人には駄目でも責められることがない安心した環境を与えてあげることが必要なことなのです。
念を変えてゆく為には、駄目でも悪をしても責められない環境、そして、そんな自分を認めてくれる存在。この二つが揃うことによって、その人は現実を認めてゆくことができ、念を変えてゆくことができるのです。

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