私たちは、自分の欠点を教えもらわなければならないのに、聞きたくない

私たちは自分の欠点というものは気付かないもの。その気付かない自分の欠点を教えてくれるものが聴聞。聴聞すると自分の出来ていない所が知らされる。普通は自分の欠点には気付かないものであるし、聞きたくないもの。だから、それを教えてもらうと腹が立つし、自分の欠点に気付いてばかりいたら、落ち込んでしまう。でも、それに気付かせてくれるものが聴聞。

世の中では自分のことは自分がよく知っているというが。そうやって、自分のことを聞こうとしない。それは非難されたくないから。本当は直さなければならない所が一杯あるのが自分。だけど、自分の欠点というのは言われたくないからできる所に立つ。しかも、自分の姿というのは自分では見えない。それは自分の身のまわりの世界というのは自分の業が生み出した世界だから、何かと比べて、自分の世界を知ることができる私たちは、自分の業によって生み出された世界しかない世界の中では、自分の世界を見ることはできない。だから、私たちは自分の欠点というのは他人から教えてもらわなければ分からない。みんな自分の欠点というのは聞きたくない。だから、自分の間違いを教えてくれる仏教というのは耳に痛い物だから聞きたくない。本当は自分の間違いを教えてくれるのだから、有難いもの。教えてもらわないと分からないのに、気付かないまま、過ちを続けてゆくのに、自分の間違いを教えてくれるということを有難いとは思えない。それはみんな自分の間違いを認めたくはないから。なんで認めたくないのか。それは不安になるから。自分の間違いを認めると否定されているように感じるから。それは正しい所に立って、私たちは他人を否定しているから。この世界は私たちは白と黒で世界を見ている。他人が黒になると無条件で自分は白だと思い込んでいる。世の中では他人の悪を批判する人は正しい人だと思われている。ちょっと考えたら、批判する人だって間違っているかも知れない。批判したからと言って、それが正しいとは言えないのに、白と黒で世の中を見ている私たちは、誰かが間違っていると決め付けたら、それを批判しているものは正しいといしか見えなくなる。だから、私たちは自分は正しい所に立とうと思ったら誰かを批判する。そうすると、自分は正しい人間となって安心できる。私たちは自分の存在が不安なので、安心しようと思って正しい所に立つ。だから、自分の間違いを認めることはできない。それは自分の間違いを認めたら存在してはいけないと不安になるので正しい所に自分を置こうとするから。

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