我を求める人生に幸せはない

私たちは我があるから、他人と比べて自分が上か下かを問題にする。
それは私たちは誰しも愛欲を持っており、他人から認めてもらいたいと思っている。そして、他人から認めてもらう為には、他人よりも価値のある存在にならなければ、他人は私のことを見てくれることはなく、ここに居ながらに、まるで透明人間のように扱われて苦しまなければならない。
だから、私たちは他人から認めてもらいたいなで、価値のある我にならなけれぱ、と思って、価値のあるものを追い求める。
例えば、一生懸命勉強するのも、勉強ができるとまわりの人から認められるからであり、出世やお金や地位、名誉、財産を求めるのも、それらを手に入れたならば、まわりの人は自分の存在を認めてくれると思うからです。
これらすべて何か価値のあるものを手に入れたら、他人は自分の存在を価値ある人間として見てくれると思うからてあり、我を問題にしている心でもある。
この我を問題にするのは、価値のある我となったならば、まわりの人は自分のことを大事にしてくれると思う心があるから。
だから、自分が価値ある存在になったら、無条件で自分のことを大事にしてくれると思っている。
ところが、自分は価値のある人間だと思っているのに、その自分の存在を無視する人がいたならば、自分の存在が否定されたように感じて腹が立つ。
それは価値のある人間という所に立ったからと言って、みんながみんな自分の存在に気を遣ってくれる訳ではないのに、私たちは一度自分は偉いんだと思い込むと、みんなから大事にされないと気が済まない。
そして、自分のことを軽く扱う人がいたならば、自分の力を見せつけ、もう二度と自分のことを馬鹿にしないように懲らしめてやろうと思ってしまう。
結局、どんなに価値のあるものを身につけて、自分に自信をつけたとしても、それはまわりの人が自分の我に合わせて大事にしてくれるから、保つことができる自信。
一人でも自分のことを大事にしない人がいたならば、穏やかな心も吹き飛び、怒りで相手を責めずにはおれなくなります。
また、どんなに価値のあるものを手に入れたからと言って、それでまわりの人が大事にしてくれる訳ではない。まわりの人が自分の存在を認めず、軽く扱ったならば、今まであった自信も吹き飛び、まわりの人から見捨てられたように感じて、弱々しくなってしまいます。
我とは、まわりの人に振り回される。他人が認めてくれたならば自信がつくが、認めてくれないと自信も吹き飛びオロオロになる。
そして、自信としているものを失った時、まわりの人は自分の存在を嫌いに感じて邪魔だと思っているように感じて、苦しまなければならない。
このような人は価値のあるものを追い求め、手に入れても、手に入れても、維持できなければ、自分の存在を見捨てられると思って不安になり、失ったら、あった時の栄光が忘れられず、苦悩し、無ければ無いで、無い自分を惨めだと思って苦しまなければならないのです。

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