定とは

定とは心の中でとらわれがなくなり、穏やかな心の状態になったこと。浄土真宗の家庭ならば、よく朝晩のお勤めをしているが、その時、正信偈に心を集中して読みながら、心の中ではあれやこれや思っている。心を一つに集中させたいと思えば思うほど、他事を考えてしまう心。この心こそ、とらわれ。このとらわれがあると無常がやってきたときに現実を受け入れることができず、無常を否定する。そして、どうしてもこの無常が起きたのは自分に原因があるとは思えず、自分を苦しめている奴がいるのではないかと思って、他人を責める。このとらわれがあると、自分の心でありながら、自由にならず、頭ではどんなに相手を責めたって現実は何も変わらないと知りながら、それでも無常が認められず、他人を責めてしまう。様々な煩悩を生み出す心。それがとらわれ。このとらわれが無くなったならば、どんなに都合の悪いことが起きたとしても、これは仕方のなかったことだと思って無常を受け入れることができる。無常を受け入れることができないから、様々な煩悩が吹き上がり、心が散り乱れる。逆に言うと無常を受け入れたならば、無常によって煩悩が吹き上がることはない。もちろん、感情がないも起きない訳ではない。悲しいことがあったならば、悲しいと感じる。でも、その時、どんなに悲しいからと言って、相手を責めることはしない。また、将来のことを考えると不安になる。不安になると“どうしよう、どうしよう”と思って、心が散り乱れる。これが煩悩。前向きに考えて、その不安なことに対してどうしたらいいかを考えることができない。つまり、どんなことがあったとしても、心軽く無常という現実を受け入れて、どうにもならない現実を仕方ないと思えるようになること。それが定なのです。

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