安楽浄土をねがひつつ

安楽浄土をねがひつつ 他力の信をえぬひとは 仏智不思議をうたがひて 辺地懈慢にとまるなり
阿弥陀仏の極楽浄土に往生したいと願いながら、まだ阿弥陀仏から他力の信心を得ていない人は、浄土とは、阿弥陀仏の作られた浄土に自分が死んで往生することであると思っている。つまり、往生とは、幸せな世界に自分がゆくことだと思っている。そこに往ったならば、自分はいくらでも欲に流れることができるし、みんなから大事にされる。そんな世界が極楽だと思っている。だから、本当の浄土とは、自分のまわりの人たちに幸せを与えてゆき、自分のいる環境を極楽のような世界にすることだということが分からない。幸せとは、誰か尊い人が作ってくれる世界てあり、自分はそんな世界に行きたいと思っている。考えてみれば、私たちは自分のいる世界に不満しか起きない。みんな自分のことしか考えないと言ったり、自分が努力して気を遣っているのに、優しい言葉一つかけてくれないと文句を言ったり、いつもまわりを見たら、思い通りにならないことばかりで、こんな世界嫌だと思ってしまう。だから、阿弥陀仏の極楽浄土の話を聞くと、こんな素晴らしい世界があるなら、往生したいと思う。その目的は、自分が楽ができるからてあり、そんな自分をまわりから大事にされると思っているからである。
でも、本当の浄土とは違う。自分が楽ができる世界ではなく、自分だけが動き、まわりの人を楽にしてあげる世界が浄土。また、自分が大事にしてもらうのではなく、自分の方から相手を大事にしてあげるのが浄土。こんな話を聞くと、そんな世界のどこが素晴らしいのかと思ってしまう。だから、自分が幸せな世界を作ってゆくことがどれだけ幸せなのかが分からないから、みんな仏智不思議を疑っているのです。
私たちにとって幸せは自分が楽ができることではなく、幸せな世界を作ってゆく為に自ら動いてゆくこと。自分の努力によって、幸せな世界ができることは何よりも幸せなことであり、それはどんな幸せな世界があって、そこにいったとしても、味わうことができない幸せ。阿弥陀仏の極楽に往生するとは、そんな幸せな世界を自ら生み出してゆこうと、どこどこまでも努力してゆく身になること。それはとても幸せなことであり、この世のどんな幸せも、幸せを生み出す幸せに比べたら色あせるほど、幸せなのです。
幸せは誰かが作ってくれるものではなく、自分が生み出してゆくものだと心が大変わりするのが他力の信を得ることであり、そこから無限の努力を続けて、自分のいる環境を阿弥陀仏の極楽浄土のような幸せな世界へと変えてゆく身になるのです。

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