嫌われたくないと思うのはなぜ?

よく嫌な顔をされるぐらいなら、自分でやるという人がいる。みんな他人から嫌われたくないと思って、嫌われないように気を遣う。
でも、この嫌われたくないという心はどこから起きるのだろうか?
誰だって他人から嫌われたくないと思っているが、この心が強い人もいれば、弱い人もいる。なぜ強くなるのかと言えば、内心では、自分のことを他人から嫌われる存在だと思っているから。青色の眼鏡で世界を見ると、世界は青色に見えるように、他人から嫌われているのではないかという色眼鏡で世界を見たら、相手のちょっとした言動も自分のことが嫌いだから、やったのではないかと思って、嫌われないように気を遣うようになる。
でも、どんなに嫌われないように気を遣った所で、自分は嫌われているのではないかという色眼鏡で世界を見ているので意味がない。だから、嫌われないように気を遣うよりも、自分は嫌われるのではないかという色眼鏡を外した方が、ずっと心は楽になる。
では、どうしたらこの色眼鏡を外すことができるだろうか。
嫌われるという色眼鏡は、感情的に嫌いな人がいるから、それが鏡のように跳ね返って、嫌われるのではないかという不安が生み出される。
だから、自分が嫌いな人がいなくなれば、嫌われるのではないかという不安も消える。
でも、どんなに嫌いな人をなくせと言われても、感情の問題だから、なかなか難しい。
では、なぜ嫌いという感情が起きるのか?嫌いという感情は、何か嫌なことがあった時に相手に対して嫌だということが言えずに我慢するから、嫌いになる。この人には何も言えないと自分の感情を押さえつけて我慢させると、感情は無力感を感じる。この無力感を受けた相手に対して私たちは嫌いという感情が起きる。
だから、嫌いという感情を無くす為には、嫌なことがあった時は我慢せずに、自分の気持ちを分かってくれる人にこんなことがあって嫌だったと愚痴を吐いたらいい。愚痴を吐けば、心がスッキリして、嫌いな人もいてもいいかなと思えるようになる。
よく我慢することは美徳と言われるが、仏教的に言ったら、我慢せずに愚痴を吐けばいい。でも、その時に大事なことは、相手を選ぶこと。愚痴は誰にでも吐けばいいというものではない。自分の気持ちを受け止めてくれる人に吐かなければ意味がない。
だから、愚痴を吐ける人には嫌いな人はいない。嫌だなと思うことはあっても、まっいいかと流せる。
愚痴を吐いて嫌いな人を無くせば、嫌われないように必要以上に心配になることもなくなる。
この世をもっと生きやすく生きてゆけるようになるのです。

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