執着

執着とは、物事を固定化して見ること。
たとえば、自分は嫌われるのではないかと思っている人は、たとえ十人のうち九人の人が自分のことを好きだと言ってくれたとしても、残り一人が自分のことを嫌いなだけで、私は嫌われる人間だと思ってしまう。
いつも嫌われる人間だと思っているから、みんなから嫌われているのかどうか不安になる。だから、確かめたくなる。この人は私のことを嫌っているかどうか。そこで嫌われてないと分かると安心するが、少しでも相手の言動を通して自分のことが嫌いだから、そんなことをするのではないかと思うと、腹を立てて相手を責める。
このような人は嫌われているかどうか不安だからこそ、自分が不安にならないように、相手はこうすべきだと決まりを作る。
たとえば、食事は一緒に取らなければならないというように、みんなの言動を正義で縛る。そこで一緒に食事を取ることはせず、離れて取っている人がいたならば、この人は私のことを嫌いだから、こんなことをしたんだと相手の心を決めつける。
このように、執着とは、自分の思い通りに相手を縛り、思い通りにならない時には、相手は自分のことを嫌いだから、こんなことをしたんだと決めつける。
本当は相手はどんな気持ちで離れて食事をしたのか分からないのに、自分が嫌われているのではないかと不安だから、嫌いだから、こんなことをしたんだと見てしまう。
これが執着。
執着が強いと、自分の思い込みも強くなり、相手がこんなことをしたのは、こういう気持ちだからと、自分の考えが正しいという所に立って、それ以外の可能性を考えることはしない。
嫌われているのではないかと思う人は相手のちょっとした言動が私のことが嫌いだから、こうしたんだと決めつけるし、のけ者にされるのではないかと思う人は、他人が楽しそうに笑っているだけで、自分がこんなに悲しいのに笑うなんて酷いと、のけ者にされたように感じる。
そして、不安だから、相手の行動をこうするべき、こうして当然と縛る。たとえ相手が自分のことを思ってやってくれたとしても、この人には、相手がこうするのは当然のことだからと思っているので、相手がどんな心でやったのか、見ようとしない。
いや、見てしまったら、本当は嫌なのに、やったんだと不安になるから、見ようとしないのである。
だから、執着の強い人にどんなに心を込めてやったとしても、その人は感謝して嬉しいと感じることはない。その人にとって思い通りに物事が進んでいるかどうかが大事なのであり、相手がどんな気持ちでやってくれたのか、考えることはしないのです。
これが執着。この執着が少なくなることで、私たちはたとえば嫌われていることでいったならば、十人中一人から嫌われた時、私はこの人から嫌われたと冷静に見ることができる。
執着が強い間は嫌われるような人間だと見ていたことが、自分はこの人から嫌われたんだと冷静に受け止めることができる。自分はこういう存在なんだと固定化して見ることがなくなり、この人からこのように見られるけど、他の人からは別のように見られると人によって違うことを受け止められるようになるのです。

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