因果応報が信じられない心

次に不信とは、因果の道理を信じることが出来ず、自分にとって都合の悪い現実がやって来ると、その現実を引き起こした原因が自分にあると思いたくないので、誰かを悪者にしてあの人がこんなことをしなければ、こんなことにはならなかったと、他人を責めて、自分を正当化する心を言います。
つまり、自分がそんな現実を生み出すような悪い行いをしているとは、認めたくはないので、他人を悪者にして、自分は悪くないと因果の道理を否定することを不信と言います。
では、なぜそんなに私たちは自分の悪を認めることが出来ないのでしょうか?
それは自分はそんな悪人になることなんてないと思って、悪人を見下し、馬鹿にしてきたからです。だから、自分の悪を認めると自分が今まで悪人を馬鹿にしてきた分だけ、馬鹿にされているように感じて、どうしても自分の悪を認めることが出来ないのです。
だから、現実を通して自分の悪が見せつけられた時、自分が悪かったと認めたくはないので、あの人がこんなことさえしなかったら、こんな現実は起きなかったと他人を悪者にして責めて、自分を正当化してゆくのです。
しかし、どんなに他人が思い通りに動いて、その時は嫌な現実を見なくて済んだとしても、自分の日頃の行いが変わる訳ではないので、また、何かしら同じような縁がやって来ると、嫌な現実が起きて苦しまなければならないのです。
だから、どんなに他人のせいにして都合の悪い現実を否定したって、何かが変わる訳ではありません。たとえその場は誰かのせいにして、自分は悪くなかったと心を収めたとしても、そんな嫌な現実は自分が悪かったと認めるまで、波のように次から次へとやって来ます。
だから、都合の悪い現実を否定することに力や頭を使うよりも、素直に現実を認めてゆく方が結果的には自分はあまり苦しまなくて済むのです。
因果の道理を否定して、自分は悪くなかったと意地を張っても、何か現実が変わる訳ではありません。
ただ現実を認めるまで、果てしなく苦しまなければならないのですが、それが分からず、意地を張って、自分は悪くないと因果の道理を否定する心が不信なのです。

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