南無不可思議光

南無不可思議光

不可思議光とは阿弥陀仏の別名。阿弥陀仏は不可思議光というお徳を持たれているので、阿弥陀仏のことを、また不可思議光とも言われる。この不可思議光を南無するとは、心からうちまかせるということ。だから、不可思議光に南無するとは、阿弥陀仏の不可思議光という真実に触れて知らされた真実に心から従い、うちまかせるようになったという意味。では、不可思議光とは何か?

この不可思議ということについて、改邪鈔には次のように教えられています。

本願の不思議をもって生まるべからざるものを生まれさせたればこそ超世の悲願とも名づけ、横超の直道とも聞こえはんべれ。

つまり、不可思議光とは、生まれることのできない死んでしまった心を生まれさせる力のことです。

ここで心が死ぬとはどういうことか。私たちは心が穢れてくると自分の心が見えなくなる。心を傷つけるようなことをしていても、そのことに気付かなくなる。これが心が死んでしまった状態。このようになると心が苦しんでいても、その苦しみに気付かなくなる。それどころか、心を傷つけることを平気でやるようになる。ここで心を傷つける行為とはどういうことなのか。心を傷つけるとは、責められたり、自分を責めること。責められると自分の心は傷つく。では、責めなければ自分の心は傷つかなくて済むのに、なぜ責めるのか。また、他人から責められたとしても、自分が出来ていない自分を責めなければ、自分の心は傷付くことはない。結局、苦しみとは自分で自分を責めなければ起きることはない。この苦しみを生み出す自分を責めるという行為はどうして起きるのでしょうか。私たちは間違っているものを見ると責める。それは自分とか他人とか関係なく、間違っているものを見ると責める。責めるのは、それが悪いことだと気付かせるため。私たちは、悪いことだと分かったら、悪をやめると思っている。そして、間違ったことをした人を責めるのは無意識のうちに、それが間違いだと分からないからやっていると思っている。この間違いだと分かったらやらなくなると思っている心が我。我とは自分の常識に照らし合わせて間違ったことはしないと思っている心。自分は間違ったことをしないと思っているからこそ、間違ったことをした人を簡単に責めることができる。でも、そうやって他人を責めた分だけ、自分が間違ったことをした時には、自分を責めて苦しむ。責めるから責められる。それは責める人がいなかったとしても、自分が間違ったことをしたとき、責められているように感じて苦しむ。だから、責められて苦しみたくないと思ったならば、他人を責めることをやめてゆかなければならない。どんなに相手が間違っているとしても、それで他人を責めると、その責めたことは鏡のように跳ね返り、自分を苦しめる。でも、私たちは責めるから責められて苦しむということが分かっていないから、責められて心が苦しい時に心を穢れさせて、自分の心を見えなくさせる。そうやって、心が見えなくなると、正しい所に立って、簡単に他人を責めることが出来るようになる。心が見えたならば、他人も間違った所があるように、自分にも間違っている所があると気づく。だから、正しい所に立って、簡単に他人を責めることができなくなる。これが心が生きている状態。心を生まれさせるというのは、心の穢れを取り去り、自分の心が見えると状態にしてあげること。阿弥陀仏の不可思議光とは、心の穢れを取り除き、自分の心が見えるようにしてあげる力。心が見えるからこそ、自分の間違いに気付くことができる。それは自分が他人を責めた分だけ、他人から責められているように感じて苦しむが、自分の罪悪に気付くことができる。それが心が生き返るということ。阿弥陀仏の不可思議光のお徳とは、罪悪を造ったら、造った分だけ、苦しみを与え、苦しみを通して自分の罪悪に気付かせる力。こうやって苦しむと私たちは自分の心を穢れさせて、自分の心を見えなくさせるが、阿弥陀仏のお力はそんな穢れた心の状態であっても、太陽の光が雲を貫き、自分の心を明るく照らすように、阿弥陀仏の不可思議光は穢れという雲を貫き、自分の心を明らかに見せてくれる。だから、もうどんなに心を穢れさせて、心を見えなくさせることはできないと、心を誤魔化すことはできないと心から知らされた状態が不可思議光に南無したということなのです。

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