半日村

こんにちは上田です。
いつも読んで頂きありがとうございます。
昔、読んだ話に半日村という話がありました。
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農村にすむ者にとって、日当たりの良し悪しは死 活の問題です。農作物は太陽の光を十分に浴びるこ とによって生育するのですから、その村に太陽の光 が当たるのが半日だけというのでは収穫物も他の村 に比べれば大きく劣ることでしょう。 でもその村に生まれ育った人は目の前に山がそび え、それが太陽の光をさえぎっているということは 一種の「宿命」と考えていました。 「山を取り崩す」などという発想はもちようがな かったのです。 ところが子どもというものはとんでもないことを 思いつくものです。
ある夜、一平はとうちゃんとかあちゃんの嘆きを 言葉を耳にしました。 「あァあ、おらたちの村は、なんという村かのう。 あの山さえ なかったらのう」 「だめさ、山は山さ。うごかせやしねえ。わるい村 に うまれたとおもって、あきらめるより しかたがねえさ」
一平は、次の朝から袋を担いで山に登り、山の土を袋に入れては村の前にある湖へす ててきます。村の子ども達は一平のしていることを面白半分に眺めています。
こどもたちは 一平が へんなことを しているので、 どうした どうした なにしてると きいてみた。 「うん、おらは、あの山を みずうみに うめちまおうと お もってるんだ」 と、一平がこたえると、みんなは、一平のやろう、ばっかじゃな かろうか、 気がちがったんじゃなかろうかと 大わらいした。 でも一平は、また、ふくろをかついで 山にのぼった。 てっぺんにつくと、てっぺんの土を ふくろにつめておりてき た。 おりてくると、そいつを まえのみずうみに ざあっとあけた。 あけおわるとまた山へのぼって……。
子どもというものはまったくなんでもないことであっても、“おもしろい”と思った ら、すぐにまねをします。子ども達は一平のまねをして山から土を運びます。土を運ぶ 人数も増えてきます。
しかし、大人というのはどうしても「常識」というものにしばられていますので、そ んな子ども達の様子を笑って見ているだけだったのです。 それでも子ども達の様子(働きぶり)を見ていると、何かを変えることができるので はないかと期待をするようになり、大人達も土運びを始めました。それから何年もの時 間が過ぎて………。
ある朝。村にさっと朝日が射し込んできます。
一平や、おとなたちや、一平のこどもたちや な かまの こどもたちは、みんな うちのまえに と びだして、せいいっぱい 朝日をあびて、あはは、 あははと わらった。
この「あはは、あははと わらった」というのが とても印象的です。 人は苦労の末に何かを成し遂げた時、多くは語ら ず、ただ「あはは、あははと わらった」と腹の底 から笑うことでしかその満足感を表わすことができ なかったのでしょう。
たったいっぱいの袋の土運びで始まった山の取り 崩し作業ですが、こうして「半日村」は「一日村」 に変わったのです。湖に入れた土によって、湖は埋 められ、そこが畑に変わりました。
それもこれもすべての始まりは一平のいっぱいの 袋からだったのです。
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仏法を伝えるとこの話が思いだされる。
仏法は煩悩から離れる教えと言うと、そんな馬鹿なことがこの世であるかと笑われる。
確かに煩悩しか知らない人にとって、煩悩から離れると聞くと馬鹿げていると思うかもしれない。
でも、この子供のように純粋に自分の信じる道を進んでゆきたいなと思いました。

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