信とは

信とは、心の中で愚痴や妬み、嫉妬、自己否定などの負の感情が全くなくなった心を言います。このような心は因果の道理を信じなければできません。因果の道理を信じるとは、苦しいことがあっても、あの人がこんなことさえしなかったならば、こんなことにはならなかったと苦しみを他人のせいにすることなく、常に自分がもっと気をつけていたら、こんなことにならなかったと自分に原因を求め、反省できる人を言います。ここで自分に苦しみの原因を求めると言っても、自分のせいだと自分を責めることとは違います。自分を責める人とは、こんなことさえしなかったら、こんなことにはねらなかったのだと起きてしまったことを問題にして自分を責める人のことで、そうやって自分を責めることで、ここに自分は存在してはならないように感じます。しかし、そうやって自分を責めても、あの時こんなことさえしなければ良かったという後悔だけ。起きてしまった現実を前向きに受け止め、これから自分はどうしていったらいいかを考えることはしません。まるで起きてしまったこと自体悪いことで、悪いことをしたものには罰を与えればいいんだと思って責めている。それが自分のせいだと思って自分を責める人です。自分に原因を求める人はまず、起きてしまった現実を仕方ないことだと受け入れ、誰が悪いと犯人探しをしません。そして、たとえ自分のせいでこんな問題が起きてしまったとしても、こんなことをしなければ、こんなことにはならなかったと自分を責めることはしません。ただ起きてしまった現実はもうどうすることもできないと受け入れ、今起きている問題をどうしたら対処できるか考えて行動する。それは起きてしまったことは仕方ないという悟りがある。それに対して、自分や他人を責める人は、こんなことさえしなかったら、こんなことにはならなかったと、原因ばかりを問題にして、起きたてしまった現実を受け入れることができない。だから、いつまでも自分や他人を責めるばかりで、起きてしまった現実を向き合って対処してゆこうと前向きに考えることができないのです。つまり、信とは起きてしまった現実はどんな現実であれ、仕方ないと受け入れることができる心の状態を言います。受け入れることができるから、では、これけらどうしようかと前向きに考えて、今必要なことに心を向けてゆく。このように現実を受け入れることができるから、将来こんなことが起きたらどうしようと不安になることはなく、起きたら起きたで、その時、自分のできる最善のことをするだけだと心が座っていることができるのです。私たちは起きてしまった無常を無常と受け入れることができないから、こんな無常を起こしたのは誰だと犯人探しをして、その人を責めることで、無常という現実が起きる前に戻そうとします。それが恨みであり、愚痴。しかし、どんなに自分や他人を責めたとしても、無常という現実が何か変わるわけではない。だから、起きてしまった無常はどんなに人を責めたとしても、どうすることもできないと受け入れる。それが信なのです。

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