仏教の幸せは多くのものを手に入れることではない

多くの人は欲で、色々なものを手に入れて自分のものにしたいと思う。
でも、一度自分のものにしてしまうと、手に入れたものに対する関心は薄れ、次のものが欲しくなる。そうやって、次々と欲しいものを手に入れてゆくことが人生の楽しみだと思っている。
しかし、仏教では、このような生き方は必ず不安を生み出し、苦しみ続けなければならないと教える。
それは自分がものに対してやっていることが、自分に跳ね返るからだ。
私は平気で次から次へと欲しいものに目を向けているが、それが自分に跳ね返ると他人は自分に目を向けてくれたとしても、すぐに他のものに目を向けてしまうように感じてしまう。
たから、他人の目が自分に向いてくれるように、常に新しいもの、新しいものを身につけ、他人の関心を自分の方に向けなければ不安になるからだ。
そして、どんなに他人が自分の方を向いてくれたとしても、心からは安心できない。何故ならば、自分がいつも次のもの次のものに心を向けているように、相手も私の方を向いているけど、心は別の人を求めているのではないかと疑うからだ。
だから、相手の心はどんなに頑張っても自分には向いてくれないのではないかと諦めているし、それでもみんなの目が自分に向くことばかり考えているし、心はいつまで経っても安らかになることはない。
だからこそ、仏教では、少欲知足を勧められ、ものを自分のものにすることを楽しみにするのではなく、一つものを手に入れたら、それを大事にしてゆくことを楽しみにしてゆきなさいと教えられるのです。
どんな高価なものを手に入れたとしても、それを大事にしなければ、それは自分のものになったとは言えない。だから、どんなものを手に入れても、何もないのと同じなので、次から次へと欲しくなってしまうのです。
仏教の幸せとは、多くのものを手に入れることではない、一つのものを手に入れて、それを大事にしてゆくことなのですね。

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