三塗苦難ながくとじ

三塗苦難ながくとじ 但有自然快楽音 このゆへ安楽となづけたり 無極尊を帰命せよ
三塗とは何か?三塗とは、地獄、餓鬼、畜生のことである。人は自分が苦しいと、その苦しみを他人が悪いからだと思ったり、他人の幸せを妬んだり、自分さえ良ければいいと思って行動したりする。これらの心によって地獄、餓鬼、畜生が生み出される。この苦しみの元は見捨てられることへの苦しみ。それは自分が嫌になると簡単に相手のことを見捨ててしまうからなのだが、私たちはその真理が分からず、自分は簡単に見捨てながら、見捨てられない人間になりたいと思っている。だから、価値を求め、価値のある人間になれたら、まわりの人は私のことを大事にしてくれるだろうと思って、必死になって価値を手に入れようとしている。でも、どんなに価値を手に入れたとしても、それを相手が認めてくれなければ、自分は価値のある人間という所に立てない。もし、価値を認めない人がいたならば、そんな相手は容赦なく否定する。そして、その人の悪い所ばかりを見ては、その人のことをダメな奴だと否定する。人には良いところもあれば、悪いところもある。でも、私たちは自分の価値を認めてくれる相手には良いところを認めてあげてもいいが、自分の価値を認めない人には、悪いところばかりを見てしまう。そして、自分が悪く見た相手には、相手の方から頭を下げて、近づいてくれなければ、自分が悪く見ている分だけ、相手も悪く見ているような気がして、普通にしていても、相手のことを拒絶する心が起きる。そして、ちょっとした相手の言動が気になる。そして、相手のこんな所が悪い、あんな所が悪いと悪いところばかりが見える。人はなんて愚かなんだろうと思う。相手の悪いところを認めさせたら、相手は自分の間違いを反省して、正し、自分に近づいてくれるように思っている。でも、実際は相手の悪いところばかりが見えると、相手は自分から離れてゆく。離れてゆくとますます怒りを起こし、相手を否定する。相手を否定しても、相手は離れてゆくだけなのだが、正してくれると迷い。反省して、自分に近づいてくれると思っている。悲しい迷い。でも、多くの人は自分の価値を認めない相手には容赦なく否定する。そして、価値を持っていて、みんなから認められる人を妬み、その価値さえ手に入れたら、自分もあんな風にみんなから認められると思っている。でも、どんなに価値を手に入れても、徳を身につけなければ、人から愛されることはない。それなのに、もっと価値を手に入れたら認められるのではないかと思って、価値を手に入れ、価値のある人間になろうとする。これが餓鬼。自分の愛の渇きを価値のある人間になれば満たされると思って、求め続ける。でも、どんなに価値のある人間になっても、他人が見てくれるのは一時だけ。すぐに飽きて自分の方から離れてゆく。だから、みんなの目を私に向けさせたくて、価値を手に入れ、見せびらかし続ける。自分が誰かを愛すことよりも、愛されることばかり求めているのが餓鬼。その根底にあるのは、世界はお互い様だと思えない畜生の心。世界は自分の心の鏡。私たちは他人に対してはこうして欲しい、ああして欲しいと要求するのに、自分の方からは相手にしてあげたいと思わない。みんなから大事にしてもらっても、自分からは大事にしないものが人間なのである。だから、愛して欲しいと思うのに、自分からは愛することはしない。その為、どんなに愛してもらったとしても、ちょっと自分の理想と違うだけで、不満を漏らし、相手に変わってもらおうとする。相手が変われば自分は楽になるとしか思わないのである。この自分のことしか考えない心が、浄土に往ったら、私が相手にしてあげたいという心に変わる。愛されたいから、愛してあげたいに、してもらいたいから、してあげたいに変わる。だから、浄土には苦しみがない。それは相手から大事にされないことで苦しむことがないからだ。浄土にいる人は愛してもらえないならば、愛してあげたらいいと思う。それは愛してもらうことよりも、愛することが幸せだからだ。私たちは苦しいから、してもらいたいばかり。それが浄土では、幸せだから、してあげたいばかりに変わる。それが浄土。
環境が幸せだから、私たちは幸せにねるわけではない。幸せは私の心が生み出してゆく。幸せな人は心が違う。してもらいたいから、してあげたいに変わる。それが幸せなんだという智慧があるから。そんな智慧を与えてくれるのが阿弥陀仏だから、阿弥陀仏に対して心から帰命しなさいと教えられているのです。

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