一生かけて積み上げたきたものが臨終で崩される

私たちの人生は結局のところ、自分はこの為に生きてきたと言える生きた証を求めて生きている。

そして、この為に生きてきたのだから、死んでも悔いがないのではないかと思って生きている。

でも、そうやって積み上げてきた生きた証も死んでゆく時にはすべて崩される。

それは自分が正しいと思って生きてきたことが崩れてゆく瞬間。

その時、私たちは何の為に生きてきたのだろうかと感じる。

それは死の瞬間だけでなくても、老いというものがやってきた時に感じる。

老いとは残酷。

自分が正しい感じてきたものが若者によって次々と崩される。

そうすると、何か自分の人生が否定されているように感じて苦しむ。

もちろん、若者は自分のやりたいようにやっているだけで、年寄りを否定している気持ちはない。

それでも老いたものから見れば、まるで自分の人生が否定されているように感じる。

だから、年寄りは若者のやっていることを否定しようとするし、そうすることで自分の正しさを証明しようとしている。

でも、どんなに自分の正しさにしがみついた所で臨終にはすべて崩される。

だから、この真実が知らされたならば、自分の正しさにしがみつくのではなく、これも死の準備だと思って、しがみついた執着を捨ててゆく。

それが大事。

でも、人間とは人生をかけて自分の生きた証を求めて、それが臨終で崩されて何の為に生きてきたのだろうとなってしまう。

なんか人間の一生って何だろうと思ってしまいました。

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