どこまでいっても崩れる

こんにちは上田です。
いつも読んで頂きありがとうございます。
どんなに心を清らかにしたとしても、
心の汚れた人に近づいたら、すぐに心が汚れ、相手を傷つけてしまいたくなるのが人間。
だから、親鸞聖人は
悪人には敬して遠ざかれ近づくべからず
と言われたのかもしれない。
心の汚れで苦しんでいることを知るのは、
汚れを取ってみた人にしか分からない。
自分の力で得た清らかな心は、いとも簡単に汚れ、汚くなる。
だから、仏教ではどこまでいっても退転すると教えられる。
本当の清らかさは仏力によって得られる。
それは人知の壁をぶち破った仏智を知らされた人にのみ分かる世界なのかなと知らされました。


今日も日差しがギラギラと…
なのに帽子がきらいなあかり。
通りすがりのおじちゃんに「帽子かぶらないかんぞ~」と叱られたあかりでした。

コメント

  1. 柳に風 より:

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    ◎相手と自分の違いを知る
    相手を知る為には心に触れてみなければ分からない。
    ◎阿弥陀仏の本願
    語る事によって相手の苦しみが抜け自分の心の汚れが
    取れていき心が清らかになる。
    ◎無明
    都合のいいものに囲まれた環境で どんなに自分を知ろうと
    したってそれは本当の自分ではなく美化した自分でしかない
    自分の都合のいいところしか認めない。
    ◎氷の地獄と火の地獄
    人と向き合う努力をしていかなければどこに行っても幸はない。
    今まで 幸せに向かっての 前向きな記事を書かれていましたのに
    今回の記事は 避けるような書き方ですね。
    いかがされたのでしょうか。
    「心の汚れた人に近づいたら、すぐに心が汚れ、相手を傷つけてしまいたくなる」
    理解ができません。周りの人達を傷つけるのですか?それとも「心の汚れた人」
    を傷つけるのですか?「相手」とは 誰のことでしようか。
    柳に風 がコメントしたことが ご迷惑でしたか。
    心が汚れた人ってどうしたら 分かるのですか。
    相手を知る為には心に触れ 語り 人と向き合い 相手と自分の違いを知る
    そうすることによって 相手の苦しみが抜け 自分の心の汚れが清らかになる。
    ではないでしょうか。
    まさに 都合のいい環境で どんなに自分を知ろうとしても
    都合のいい自分しか認められない汚れた心の人間になってしまうのではないですか。
    全て 上田さんのお言葉です。
    「近づくべからず」とは どんな悪人を 言われたのでしょうか。政治家や権力者の
    ことと私は思いますが 違いますか。
    自分にとって都合の悪い人間が 悪人では有りませんよね。
    それと 心の汚れ の定義はなんですか?
    仏法者として世間を見られてのお言葉ですか。
    あの記事では きれいな心と汚れた心の人が 世間では入り混じっているとの
    ご理解ですね。間違っていたらご免なさい。
    汚れた心の人=悪人 心の汚れた人に近づくなと 聖人が言われたのなら 聖人は
    山奥で一人ひっそりと暮らされたのですか?
    最後のお言葉「知らされた」は 何を意味するのですか?
    もし退転しない清らかな心を仏智により得られたと 言われるなら
    「近づくべからず」とは お話が合いません。
    聖人が弁円の 刀の下で微笑まれた 御心は お分かりになりますか。
    嫌われていますか 私?ごめんなさい。
    でも 少しお話させていただきたかったもので。
    上田さんとは 面識ありません ただの オヤジです。
    あと少し言いたいのですが・・・寝ます。
    失礼します。

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