たとひ大千世界に

たとひ大千世界に みてらん火をも過ぎゆきて 仏の御名を聞く人は 永く不退にかなうなり
阿弥陀仏に救われたならば、たとえ世界が火で包まれたとしても、その中を過ぎゆきて進んでゆきなさい。
多くの浄土真宗の門徒は、阿弥陀仏に救われたならば、その後何をしても極楽に往生できるのだと思っていますが、たとえ阿弥陀仏に救われたとしても、それだけでは往生することはできません。なぜなら、往生する為には、二河白道を進まなければならないからです。この二河白道を進むには、許せないものを許し、たとえ自分が悪くなくても相手との関係を繋ぐ為に自ら頭を下げてゆかなければならないのです。ところが、現実に頭を下げろと言われても、自分は悪くないんだという思いが邪魔をして謝ることができない。二河白道を進もうとしても、一歩も進むことができないものが私たちなのです。
これでは仏様のような心になりたいと思ってもなれない。往生できないと思っている人に阿弥陀仏の呼び声が聞こえるのです。そうなったならば、たとえ相手が責めてきたとしても、その責めてきた人と向き合い、相手のことを大事にしてゆくことができる。それはまるで火の中に飛び込むような勇気が必要ですが、相手との関係を大事に思うから、謝ってゆくことが大事なのです。
そうやって、相手から馬鹿にされても、責められても、怒りをぶつけられても、たとえ暴力をふるわれても、それを受け止め、相手との関係を大事にしてゆく。その時に、何もしなくても乗り越えてゆくことはできません。それは阿弥陀仏に救われた人でも、馬鹿にされたり、責められたり、怒りをぶつけられたりしたら、苦しいからです。そして、何で私はこんな目に遭わなくてはならないのか、頑張ることをやめようかという思いになります。そんな時、説法すると、説法を通して阿弥陀仏の御心が知らされるから、今まで心の中に溢れていた苦しみが取り除かれ、よし、謝るぞと頭を下げてゆくことができるのです。そうやって、許せないものを許し、欲と怒りの中の二河白道を進んでゆくと、今まで非難されると逆巻いていた怒りが嘘のように起きなくなる時が来るのです。それが不退の身。そこから先は思うが如く、馬鹿にされても、否定されても、責められても、あまり気にならず、頭を下げてゆくことができるようになり、無碍の大道を進んでゆくことができるのです。

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