臨終現前の願により 釈迦は諸善をことごとく 観経一部にあらわして 定散諸機をすすめけり
たとえ至心になれなかったとしても、死ぬまで善に励んだならば、その善に応じて阿弥陀仏は臨終に目の前に現れて下さる。それによってお釈迦様は仏教で教えられたすべての善を観無量寿経一巻の中に表して、定善と散善の二つの善をしなさいと勧められた。
ここで定善と散善とは何か?定善とは、自分の心を静めて、心を見つめ、自分がどんなことを念じているか知り、自分の醜い心を受け入れ、清らかな心に変えてゆく善。自分の心を静めなければ、自分の心を知ることはできないから、心を静めてやる善が定善。これに対して散善とは、煩悩が強く心を静めることができない人は、煩悩を静める為に、心をちり乱れてもいいからやるのが散善。私たちは善をする時、どんな心でやるか問題にしていない。でも、観無量寿経の教えで、それは心を静め、自分の心からどんな思いが起きているのか知るためであると教えられる。だから、仏教で教えられるすべての善は観無量寿経に収まるから、すべての善はすべて心を静め、自分の心を知るためにやるものであり、その心から起きる醜い心をまず否定せずに認め、清らかな心に変えてゆくことが大事なことなのです。
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