相手は自分だと思って与えてゆく

仏教とは、相手の為に尽くす教え。相手が望んでいることを気持ち良くやってあげる。そうすると相手は安心して自分のことを馬鹿にするようになる。自分がやるのが面倒臭いことをやらせようとしてくる。
人間とは安心すると馬鹿にするようになる。自分でやれることも相手にお願いしてやらせようとする。仏教とは、そうやって相手から馬鹿にされても、軽く見られても、それでも気持ち良く相手の為にやってあげる。
それは何のためか?
それは目の前にいる自分のことを馬鹿にしてくる人こそ、私の姿だから。私も安心したら相手のことを軽く見る人間。自分でできることも他人にやって欲しくて、お願いしてしまう人間。だから、目の前の自分のことを軽く見ている相手こそ、自分。その自分が気持ち良く過ごすことができるように目の前の相手が自分だと思って、施してあげる。私たちは自分が望んでいることをまず自分が味あわないと思って、独占するから、どんなに自分がいい思いをしても、心が苦しみ満足できない。幸せは与えることによってしか味わうことはできない。自分がやってもらって嬉しいことを相手を自分だと思って与えてゆく。そこからしか幸せは得られないのだと思いました。

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