煩悩とは、仏教では、愛欲のことであり、自己愛のことを言います。
自己愛とは、自分のことを認めてもらいたい、愛してもらいたい、分かってもらいたい、大事にしてもらいたい、無視されたくない、否定されたくないという心。つまり、相手の目が自分に向いて欲しいという心。この心を自己愛と言います。
私たちを根本的に動かすのは、この自己愛。自分の存在を認めてもらいたいと思って、私たちは生きているのであり、行動している。
それはなぜかと言えば、私たちは自分の存在に対して希薄なものを持っている。希薄とは、自分がここに存在しているのに、存在していないような、透明人間のような、そんな心を抱えて生きている。
だから、自分の存在を認めてもらいたい。認めてもらうことで、自分はここに存在しているのだと思えて安心する。生きているという実感が得られる。これを親鸞聖人は“愛欲の広海に沈没し”と言われた。この自己愛を私たちは誰しも持っている。だから、私たちは誰かに自分の存在を認めてもらわなければ、不安になって、自分はここに存在しながら、存在していないように感じて苦しむ。その為、私たちは他人から認めてもらう為に肉体を持って生まれてきた。私たちが生きているのは、この自己愛を満たすため、その為に肉体を持って生まれてきた。このように自分の存在を認めてもらいたいのはどうしてか?
それは私たちの魂は自分も他人も区別のつかないようなごちゃ混ぜの世界にいたから。これを仏教では、無明海と言われ、その中では、いつも自分は存在しながら、自分を感じられず、不安な状態であった。ここで私たちの魂とはどういうものかを解説したいと思う。私が存在しているのに、存在していないとはどういうことか?
それは譬えるなら、私たちの魂をおにぎりに譬えるならば、おにぎりとは無数のごはん粒が集まって一つの塊になったもの。それと同じように、私の魂(業)は無数の魂の最小単位である業種子が集まってできている。この業種子の集合体が魂であり、仏教では、これを阿頼耶識と言います。だから、固有の私という魂は存在しない。あくまでも業種子が集まって一つになっているだけであり、バラバラになってしまったら、私という存在は無くなってしまいます。では、この業種子とは何か?
あなたは不安な人に近づくと自分も不安になることはありませんか?腹が立っている人に近づくと何となくイライラして、ちょっとしたことで腹が立つことはないですか?この時、なぜ不安になり、イライラするのかと言えば、相手から不安や怒りの業種子をもらったからです。この業種子の一つ一つには感情があり、その感情を業種子をもらうことで、もらうので、相手と同じ感情になるのです。これが業種子。この業種子が集まったものが業であり、私たちの阿頼耶識にはこの業が収まっています。
この阿頼耶識には、次から次へと業種子が収まっています。そして、一度収まった業種子は自分色に染められ、我がつきます。私たちの阿頼耶識には次々と業種子が収まるので、やがて阿頼耶識の中は業種子でいっぱいになります。しかし、阿頼耶識は業種子を無限に収められる訳ではないので、ある程度いっぱい収まると、阿頼耶識の中から業種子を出さなければならなくなります。それは阿頼耶識の大きさは肉体に比例しているからであり、肉体の大きさに合わせて、阿頼耶識の大きさも決まっているからです。そこでいっぱいになった業種子はこれ以上阿頼耶識を大きくすることができないので、外に出すしかない。この時、私の業種子には我がついているので、自分の肉体から外に出ても、これは自分のものだと離れようとはしない。だから、私たちは何かを手に入れて自分のものにすることで、外に出た業種子を自分の我がついたものに入れておくのです。だから、私たちは一度何かを手に入れて自分のものにすると、それを捨てることはできないのです。ここで捨てることができないのは、そこに自分の我のついた業種子が収まっているからであり、それを捨てることは、まるで自分を捨てるように感じて、取っておこうとするのです。だから、私たちは人生と共に物が増えてゆきます。では、こうすることが何が問題なのかと言えば、物を捨てることができない人は、その人を囲む物たちと見えない執着という糸で繋がっています。普段はそれでいいかも知れませんが、いざ臨終になって肉体を失うと、物に入っていた業種子が元の私の阿頼耶識の中に戻ってきます。それは肉体が無くなることで、阿頼耶識の大きさに限りが無くなるからです。だから、執着を断ち切れない人ほど、肉体を失うと、今まで肉体に収まりきらずに外に出してきた業種子が次々と戻ってきて、阿頼耶識の中に収まります。そして、業種子が収まることで阿頼耶識は大きくなり、さらに次から次へと業種子を収めることで、阿頼耶識は肥大化してゆきます。こうやって肥大化した阿頼耶識はやがて他の阿頼耶識とぶつかるようになり、阿頼耶識が崩れ、融合してゆきます。このことを地獄の門では次のように教えられています。
“東の方に数百由旬もある広大な火で包まれた鉄の大地があり、そこでは炎の渦が罪人を飲み込み、皮を破り、肉を裂き、筋を断ち切り、骨をボロボロにし、細切れにしてゆく。そして、その細切れにされた一つ一つが炎によって燃やされてゆく。やがて、他の罪人の炎と混じり合い、炎の渦をどんどん大きくしながら、一つの大きな火の塊となってゆく。もはや誰が誰だか分からない。かつて人であったことさえも見て取ることができない。原型がないからです。火の塊の中から、恨みと嘆きの声が聞こえてくることから、ただ一つ言えることは、『そこにはかつて人であったものの声がある』ということ。かろうじて、それだけは分かります。”
ここからも分かるように、無限に肥大化する阿頼耶識はやがて他の肥大化する阿頼耶識とぶつかり合い、阿頼耶識が崩れてゆく。人間苦しい時には、自分が悪かったとは思えないもの。苦しいときほど、怒りが吹き上がり、まるで炎のように燃え上がる。燃え上がった炎は身も心も焼き尽くし、自分を焼き尽くすだけでなく、自分に触れたものすべてを焼き尽くす。肥大化する阿頼耶識の人はなすすべなく、炎渦巻く阿頼耶識の融合体の中に入ってゆく。その時の苦しみは筆舌尽くしがたく、その苦しみが終わることもない。果てしなく苦しみ続け、燃え続ける。これを仏教では、後生の一大事と言われるのです。
私たちは放っておくと、死後恐ろしい一大事が待っている。たからこそ、どんな人も仏教を聞かなければならないのです。では、仏教では、後生の一大事を解決する為にはどうしたらいいか?
それが戒。
戒とは、阿頼耶識が拡大しないように、我を拡大しないようにすること。後生の一大事は執着を断ち切れず、自分の我のついたものを取っておこうとする所から起きる。
だから、我を拡大しないようにする。具体的には、自分の持ち物を使っているものと使っていないものとに分けて、使っていないものを捨てる。なぜ捨てるのかと言えば、執着を断ち切る為。執着を断ち切れないから、後生の一大事が起きる。阿頼耶識が無限に肥大化して、バラバラになって炎を吹くという一大事が起きる。だから、日頃から、自分の使っていないものに対して執着を断ち切る習慣を身につけなければならない。私たちは一度自分のものになったものは永遠に自分のものになったと思う迷いを持っている。これを仏教では、常の迷いと言う。だから、新しいものを買って、今まで使っていたものを使わなくなったとしても、まだまだ使うかもしれないと思って、取っておこうとする。これは一度自分のものになったものを自分のものではなくすことが嫌だから、一度自分のものになったものは永遠に自分のものになったんだという思いから、捨てることができない。でも、この執着が死後大変な一大事を引き起こす。だからこそ、生きている間に、執着を断ち切るという訓練をしなければならない。このようにして、使わないものを捨てることによって、買った瞬間からいずれ捨てなければならないと思えるようになる。そうなると、これは俺のものだと執着することができなくなる。これが無常を悟るということ。
次に我が拡大するとどんな問題が起きるか?
我が拡大するとは、魂が大きくなるのと同じ。魂が大きくなると、その分だけ、認めてもらいたいという気持ちが強くなる。つまり、愛欲が強くなる。ちょっと認めてもらっただけでは満足することができなくなる。もっと認めてもらわないと満足できなくなる。その為に心が渇く。金持ちほど、多くの物を買えるし、捨てなくても良くなる。だから、執着を断ち切ることもいらないし、愛欲も強くなる。だから、心が渇く。どんなに物質的には恵まれても、心はいつも寂しく苦しまなければならない。
世の中では、お金持ちになることは幸せだと思いがちだが、仏教では、お金を持つことによって執着が増し、愛欲が増し、心が渇く。満たしても満たしても満たされない愛欲に苦しみ続けなければならないのです。私たちが人間に生まれてきたのは、この愛欲を満たすため、ところが、多くの人は愛欲を正直に満たそうとはせずに、自分が価値のある人間になったら、認めてもらえると思って価値にこだわるようになる。
たとえ自分のことを心から愛してくれる人と出会っても、その人の愛よりも価値のある人間になりたいと思って、名利を求めてゆく。たとえば、正直な人ならば、寂しい時には、さびしいと言って認めてもらおうとするが、価値にとらわれると、寂しければ、寂しいほど、自分が如何に価値ある人間か?如何に人の役に立つか認めさせようとする。そこでたとえ多くの人が自分のことを認めてくれたとしても、その中で一人でも自分のことを認めてくれない人がいると、その一人から自分の存在を馬鹿にされたように感じて腹を立てて、相手を責める。そして、みんなから認めてもらえたとしても、自分は価値のある人間だから認めてもらって当然と思うだけで、愛欲はちっとも満たされない。それどころか、心の奥底ではみんなから見捨てられることを恐れ、自分が他人の役に立っているか、価値があるかどうかばかりが気になる。この人の一生は自分が如何に価値のある人間になるか。価値のあるものを集めて認めてもらうかだけで生きるようになる。だから、お金に執着してお金を集めようとするし、出世にこだわり、少しでも上に上がろうとする。また、ブランド品を買い集め、自分が如何に価値のある人間かを見せつけようとする。そして、少しでも他人から価値のある人間と認めてもらうかが幸せだと思っている。このように価値のあるものを手に入れたら、他人から認めてもらえるし、幸せだと思う心を仏教では、楽の迷いと言われる。仏教では、どんなに価値のある物を手に入れても、それを失う時がやってくる。その時、価値のあるものを手に入れて幸せになった分だけ、苦しまなければならないと教えられる。これが苦という真理。私たちは自分に価値があると思えないから価値のあるものを求め、名利を求める。でも、どんなに価値にあるものを手に入れたとしても、それは自分自身ではないから、いつか離れる時が来る。お金を手に入れて喜んだ人はそのお金に執着し、失ったときに苦しまなければならないし、社長になって喜んだ人はその立場を失ったとき苦しむ。オリンピックで金メダルを取った人は、次のオリンピックでも金メダルを期待され苦しむし、取れなかったときは、世間から見捨てられて苦しまなければならない。価値は私を一時的に幸せにするが、同時にそれを失ったときに、幸せだった分だけ傷つき苦しむことになる。だから、このように価値を手に入れて幸せになろうとすることは最後には、苦しまなければならないし、失いたくないと執着するほど、失う未来を恐れ、失う前から苦しみ。失ってまた苦しまなければならない。私たちは生まれてくる時は丸裸だがら、死んでゆく時も丸裸で死んでゆかなければならない。その間、何を得たとしても、その幸せは最後、失うという悲劇によって、すべてが苦しみへと変わってしまうのである。この真実を知り、価値のあるものを手に入れ、如何に自分が価値のある人間だと認めてもらうかということ人生にとって何の意味もないことだと悟ること。これが苦という真理を悟ることなのです。この真理を悟ることで人生は大きく変わります。それはまわりの人から如何に価値のある人間だと思われて認めてもらうかということを問題にしていた人が、たとえ一人でも自分のことを認めてくれる人がいればいいと思えるようになるからです。名利を満たすことよりも、愛欲を満たすようになる。そして、愛欲を満たすことで、自分、自分と自分にとらわれていた心がなくなり、みんなから自分の存在を認めてもらわなくても不安にならない境地に出ることができます。それと同時に、この世に自分のものになるものは何一つないという無我の悟りも開くことができます。
この無常、苦、無我の悟りを開いた人を阿羅漢の悟りを開いた人と言い、それは戒を実践し、愛欲を満たすことによって、到達することができるのです。
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