無三悪道の願

では、阿弥陀仏とはどんな仏なのか?それはまず阿弥陀仏はその浄土に地獄餓鬼畜生の三悪道を無くそうと誓われました。つまり、阿弥陀仏とはどんな仏なのかと言えば、地獄餓鬼畜生の三悪道を生み出すような業を全く持ってないお方だと言うことです。阿弥陀仏が三悪道を生み出すような業を持っていないからこそ、その阿弥陀仏が生み出す浄土にも三悪道が存在しないのです。では、どうしたら三悪道が生み出されない心になるのかと言えば、この三悪道とは勝他、名聞、利養の心が生み出します。では、この心とはどんな心なのか。よく使われる譬えですが、この心は雛鳥が親鳥に対して必死に餌を求める姿に譬えられます。この雛鳥たちは十分に餌がもらえない為に、まわりの雛鳥よりも自分の方が餌がもらえるように必死になってアピールします。それはまわりの雛鳥を押しのけ、少しでも自分が餌を手に得れようとする姿。自分さえ餌がもらえたら、めわりの雛鳥はどうなってもいいという心です。これはそうしないと生きてはゆけないからであり、生きてゆく為にまわりの雛鳥を押しのけてでも、自分に餌を手に入れようとするからです。私たちも同じです。人はパンのみで生きるに非ずと言われるように、生きてゆく為には心にも栄養が必要です。この心の栄養こそ、功徳。この功徳は人から認めてもらうことによって得ることができるのです。しかし、世の中では他人から認めてもらいたいと思っても、なかなか自分を認めてもらうことはありません。それは何か他人よりもずば抜けて才能のある人や能力のある人でなければ、その人のことを認めようとは思わないからです。だから、私たちは他人から認めてもらいたいからこそ、他人と争ってまで価値のあるものを手に入れようとするし、能力のない人、力のない人は見捨てられるのではないかという不安に怯えながら生きているのです。でも、別に能力がなかったからと言って、その人はその人なりに素晴らしい所はあるはずです。その良いところ探して、その人のことを認めてあげたらいいはずです。でも、私たちはなかなかまわりの人の良いところ発見してまで誉めようとは思いません。それは何か他人を認めると自分が負けたように思って苦しいからです。だから、世の中の人たちはなかなか認めてもらえないと感じながら、少しでも認めてもらおうと頑張り続けるのです。つまり、勝他とは他を押し退けてでも自分が勝とうとする心。そして、名聞とは他人を押し退けてでも自分のことを認めてもらおうとする心。そして、利養とはたとえまわりの人たちが貧しい思いをしたとしても、自分だけでも得をしようと思う心です。ここで私たちはまわりの人たちが苦しんだとしても、自分だけでも思いが通ったらいいという心。それがまわりの人たちに対して残酷な思いになり、お互いがまわりの人たちを傷つけながら生きてゆくことになるのです。それほどこの世の中は他人の足を引っ張るばかりで、自分のまわりの人たちを認めようとする心のない世界なのです。阿弥陀仏はこんな世界の中で私だけでもまわりの人たちを認めようとされるお方なのです。誰かがまわりの人たちの良いところ発見して、認めたならば、私たちは他人と争ってまで勝とうと思ったり、自分だけ認めてもらおうと思ったり、自分だけでも徳ができたらいいなんて思わないはずです。そんなどんな人も認めてあげよう。それによってこの世から地獄餓鬼畜生の三悪道を無くしてゆきたいと願われ、それを体にかけて実践されている方が阿弥陀仏なのです。

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