仏教で煩悩の元が渇愛。渇愛とは、愛が渇く。ここで愛とは愛欲のこと。自分のことを愛して欲しい。大事にして欲しい、認めて欲しい、分かって欲しい、無視されたくないという心。
この心に渇いている。これが渇愛。では、なぜ渇くのか?
それは本当は自分の存在を愛して欲しいのに、その心を正直に伝えることができず、格好つけて自分のことを価値のある人間と認めてもらったならば、愛欲も満たされると思っているから。
だから、渇愛とは、愛欲が欲しいのに、価値を問題にしている。
例えば、認めてもらいたいから、一生懸命勉強する。勉強することでいい成績を取る。そうすると、まわりの人から頭良いねと認めてもらえる。
でも、どんなに頭のいい人だと認めてくれたとしても、自分が正直に認めて欲しいと自分の気持ちを出して認めもらった訳ではないから、愛欲は満たされない。だから、相手の目が自分に向いている時は嬉しいが、相手の目が他の方向を向くと不安になって、見捨てられないようにもっと頑張る。
この人の心にはいつも自分の存在を見捨てられるのではないかという不安がある。
不安があるから、価値を求め、価値を手に入れたら、自分は見捨てられないのではないかと思って安心する。
でも、どんなに一瞬は見捨てられないと思って安心しても、相手が認めているのは、自分ではなくて、自分の価値だから、相手が自分のことを見続けくれるように頑張り続けなければならない。
これが渇愛。
この渇愛から価値を求めている人は、基本的に根底には見捨てられるのではないかという不安を抱えているから。どんなに価値を手に入れて不安を覆い隠しても、何かのことで自分の価値を否定されると、途端に不安になって、いつまでも相手から言われたことが忘れられず苦しみ続ける。
相手のちょっとした言動も自分のことが嫌いだから、そんなことをしたように感じて不安になる。
不安になるから、他人の悪口を言って、自分よりもダメな存在を作り出す。でも、ダメな存在を作り出すほど、みんなも心の中では自分の悪口を言っているような気がして、人を避けるようになり、引きこもりがちになる。
このような人は価値のあるものを手に入れている間は一見自信たっぷりで強いように見えるが、価値を失った時はもろい。
みんなが自分の悪口を言っているような気がして、他人のちょっとした言動でも傷つく。
これが愛を満たしたいと思いながら、見捨てられない為に価値を求め、愛が渇き苦しむ人の姿なのです。
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