私たちは愛欲が満たされないと我が強くなり、正義という価値を手に入れる為に悪を否定する。悪を否定すれば、今度は価値を失った時に、こんなことになったのは、自分が悪かったと自分を悪とみなし、自分を否定し価値のある人間に戻らない限り、苦しみ続ける。
では、なぜ自分のことをそんなにも否定してしまうのか?
それは否定することで、正しい所に自分が立てるから。正しい所に立つことで、価値のある人間と自分のことを思える。
だから、何かのことで自信を失い、自分は価値のない人間ではないかと思う人ほど、手っ取り早く価値のある自分になる為に、他人が悪ければ他人を責めるし、責める相手がいなければ、今度は自分のできない所を探して、自分を責める。
しかも、思いっきり責めれば責めるほど、その瞬間は正しい所に立つので、価値のある人間と思えて心が楽になる。だから、今だけ楽になりたいから、思いっきり責めてしまうし、その報いで、思いっきり否定されるので、激しく苦しむ。
苦しいからなんとかしたいと思っても、否定している間は価値のある自分と思えて心が楽になるので、苦しみから逃れる為に、今だけ楽になりたい一心で責めてしまう。
私たちは正しい所に立って、自分のことを責めてくる人ほど、如何にあなたは間違っているかということを伝えて正したいと思うが、この人が責めてしまうのは、価値のない自分では自分を否定してしまい苦しいから。だから、そんな人にあなたの方が間違っていると指摘してしまったら、相手の価値を否定し、奈落の底に突き落とすようなもの。
その人は普通に自分の間違いを受け止めることができないだけでなく、受け止めてしまったら、今度は自分が悪いと激しく自己否定してしまう。
間違いを正すことは、相手の為にならない。本当に相手のことを考えたならば、相手が正しい所に立つのは、価値を失いたくないから。
価値のない人は、みんなから見捨てられると思っているから、見捨てられたくない一心で価値にしがみついているだけ。
だから、相手にできることは、どんなことがあっても、あなたのことを見捨てないよと相手を支えてあげることであり、日頃から相手のことに心をかけてあげること。
自分に価値があるとか、ないとか関係なく、私のことを見てくれる存在がいると思えたならば、その人は、正義という価値にとらわれなくなり、他人の悪を否定することも無くなる。
私たちがまわりの人にできることは、なるべく相手のことに心をかけ、認めてあげること。私たちは時間があると欲に走って、まわりの人のことを無視するようになるもの。だからこそ、欲から離れて、相手のことを見てあげる。相手と一緒の時間を過ごしてゆく。そうやって、相手の愛欲を満たしてあげたならば、その人は、正義にとらわれる心も少なくなり、自分を苦しめるような悪を否定するという罪悪も犯さなくなる。
みんな寂しいから、罪悪を犯し、苦しみを生み出してゆくのですね。
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