悪と分かれば抜ける

どんなに罪悪が重いものであっても、その罪悪が自分を苦しめるものであると本当に分かったならば、その罪悪は自分の阿頼耶識から吐き出され、外に出てくる。私たちは自分の中でその業が悪いと分かっていても、それは倫理道徳で悪いと思っているだけで自分を苦しめるものだとは分かっていない。しかも、自分の中にそんな業があるとは思っていないから、吐き出すこともできず、自分の中に止まり続け、自分の中から苦しみが無くなることもない。聴聞とは悪を悪だと知る場所。そこで大事なことは積極的に自分の気持ちを話してゆくこと。話してゆけば、自分の悪が照らされ、自分の中から悪が抜けてゆく。悪は悪だと分からないから、また、それが如何に恐ろしいものであるか分からないから、自分の中から抜けてゆかない。分かれば抜ける。分からないから抜けない。簡単なようでいて難しいことなのかも知れないですね。

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