怒りはどこから来るのか?
私たち生きていたら、こんな心から離れたいと思う心が怒り。怒りを起こすとまわりの人を傷つけるし、そんな傷つける自分も見たくない。だから、怒りの心から離れたいと思ったりもする。
では、怒りとはどこから来るのだろうか?
仏教では、怒りの元を恚と言われる。
では、恚とは何か?
恚とは、自分が嫌な思いや苦しい経験をした時、あの時あの人がこんなことをしなければ、私はこんな目に遭うことはなかったと、自分に起きた嫌なことを仕方ないと思えずに、他人が悪いからこんなことが起きたと思う心です。
自分に起きた嫌なこととは、自分に起きた無常。生きていれば無常が起きることは仕方がないことなのに、自分が悪いことをしなければ無常は起きないと怒りを起こす人は信じています。だから、怒りを起こす人ほど、自分が悪い人間にならないように、自分の信じる悪をしないようにしています。
だから、自分は悪いことをしていないと思っている。悪いことをしていないから、嫌なことも起きないと思っているのに、目の前で嫌なことが起きた。そうすると、こんな嫌な思いをするのは、誰か私を苦しめている奴が必ずいる筈だと、他人のせいにする心が起きてきます。
この時、その人の心では、私は悪いことをしていないのに苦しむのはおかしい、苦しむのは悪いことをした人の方だと思っているので、自分が苦しんでいるのに、悪いことをした人が苦しんでいないと、なぜ私ばかり苦しまなければならないのかと理不尽な思いを抱えながら、苦しみを我慢しなければならなくなります。つまり、悪いことをしていない自分がなぜ苦しまなければならないのかと自分に来た苦しみを納得することができず、我慢しなければならないことを恚と言います。
だから、恚は自分のことをが今苦しんでいることを納得していない、それなのに苦しみを我慢しなければならないから、心の中に愚痴が溜まる。この愚痴は始めは小さくても、そんな嫌なことが積み重なると、自分の中で大したことはないことだと思って流していることも段々と許せなくなり、やがて些細な縁でも爆発するようになります。
これが怒り。怒りとは愚痴が溜まった結果。それが自分の中で押さえられなくなって吐き出したものなのです。
だから、愚痴が溜まらなければ、怒りをおこすこともない。怒りを無くしたいと思ったならば、もちろん嫌な経験をした時に、自分がこんな思いをするのは誰が悪いことではない仕方ないことだと思えたらいいですが、そんな殊勝なことは思えないものもまた人間。
そんな時は嫌な思いをした時、我慢するのではなく、誰かにこんな嫌な思いをしたんだと話し、自分の気持ちを受け止めてもらうことが必要です。
愚痴は溜まる前に吐く。これができたならば、心は今まで以上に清らかになってきます。その為にも自分の気持ちを受け止めてくれる存在を持つことが大切ですね。
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