御一代記聞書 謗る者があってこそ

「仏説に、信謗あるべきよし、ときおきたまえり。信ずる者ばかりにて、謗ずる人なくは、ときおきたまうこと、いかがと思うべきに、はや、謗ずるものあるうえは、信ぜんにおいては、必ず往生決定」との、仰せに候う。(153)
仏説とは、仏の教え。その仏の教えに「この仏教を信じる人もあり、謗るものもいる。」と説かれている。だから、みんなこの教えは素晴らしい、と信じてくれる人ばかりで、謗る者がいなかったとしたら、「自分の説いている教えは本当に正しいのだろうか」と疑ってしまう。だけど、仏説の通り、謗る人がいるからこそ、「信じている私は間違いなく往生できる」と安心することができるのだ。
(解説)
私たちは思い通りになったら幸せになれると思っている。正しいことを言ったら、みんなそうだそうだと分かってくれると思っています。でも、真理を説かれた仏教でさえ、信じる人もあれば、謗る人もいる。みんながみんな信じてくれることはないし、自分がどんなに正しいことを言ったとしても、それで相手が聞いてくれる訳ではありません。だから、聞いてくれなかったからと言って、自分が言ったことが悪かったのではないかと自分を責める必要はないし、聞いてくれない相手が悪いのだと相手を責める必要もない。この世は思い通りになることもあれば、ならないこともある。            
 私たちは思い通りになることが幸せだと思っているが、蓮如上人はここで「思い通りにならないからいいんだ。すべて思い通りに進んだならば、本当は私は正しい道を進んでいるのだろうかと返って疑わしくなる」と言われています。私たちの考えと蓮如上人の考えは逆。きっとこのお言葉は「人生は思い通りにならないことが一杯です。どうしてこんなに思い通りにならないのでしょう。」と聞いてきた人にこのように言われたのだと思います。つまり、「思い通りにならないからいいんだ。」ということ。これを聞いた人が拍子が抜けるように感じ、蓮如上人は一体何を言っているのだろうかと思ったに違いありません。でも、蓮如上人は長い人生経験から、思い通りにならない方が幸せだったから、このように言われたのだと思います。人生は思い通りにならないから、悩む。思い通りにならないから、どうしたら幸せになれるかと真剣に教えを聞くのです。万事何事も思い通りに進んでいる人がどうして真剣に教えを聞こうと思うでしょうか。私たちの頭は顛倒。真理と逆さまなことばかりを考えています。でも、逆さまなことを考えていながら、自分は正しいと自惚れているのが私たち。そんな私たちが思い通りに人生を生きてしまったら、仏法を聞こうと思うでしょうか。仏法とは自分にとって都合の悪い死とか、罪悪とか、そんなことが説かれています。だから、仏法は耳に痛い話ばかり、そんな話を思い通りに物事が進んできた人が聞けるでしょうか。人生とは思い通りにならないことだらけ。それを思い通りに物事が進むと思っているのは、嫌な人との付き合いは避けて、自分の言うことを“ハイハイ”と聞いてくれる人たちとだけ付き合ってきたから。そして、嫌なことや都合の悪いことは誰かに押し付けてきた人でもあります。もし、嫌なことから逃げず、現実と向き合っていたならば、どんな正しいことを言ったとしても、必ず聞いてくれる訳ではないことも、信じてくれる訳ではないことも分かる筈です。それと同時に自分が正しいと思っていることも、自分の中だけで正しいと思っているだけで、まわりの人から見たら、正しくないのかも知れないと分かってきます。このように都合の悪いことからも逃げずに向き合ってきた人は、自分のことを冷めた目で冷静に判断することができるようになります。そういう意味で思い通りになるよりも、ならない方が人生と向き合い、悩み、考えて、真剣に仏法を聞くとので、思い通りにならないことはいいことなんだと蓮如上人は教えられているのです。

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