「一句一言を聴聞するとも、ただ、得手に法をきくなり。ただ、よく聞き、心中のとおり、同行にあい談合すべきことなり」と云々(137)
一言も聞き漏らすまいと思って聴聞したとしても、私たちは都合の良いようにしか教えを聞くことはできない。だから、分からないことは、うやむやにすることなく、その時、善知識に尋ね、自分はどう聞いたか、この聴聞によってどんなことが知らされたか。それを法友と会い、語り合うことが大切なのだ。
(解説)
どんなに自分では真剣に聞いたとしても、私たちは都合の良いようにしか聞いていないもの。だから、どんなことを聞いたのか話をしようとすると、辻褄が合わない所が出てくる。この時、聞けてない所が、都合の悪い所。だから、他人に話してみることによって、如何に都合良く聞いて、正しく聞けてないか分かる。そこで聞けてない所を後日、善知識から聞く。これがよく聞くということです。だから、話をするのは、自分が聞けてないことに気づくため。如何に都合の良いように聞いているか気付くためです。でも、こんなことを聞くと、毎回同じ話を聞くことになってしまうではないかと思う人もいます。しかし、仏法は“同じ話を聞け”。同じ話を聞けというのは、全く同じ話を聞きなさいということではない。自分の直さなければならないこと、気付かなければならないことを聞くということです。その人にとって今、一番の問題にしなければならないことは一つ。その問題を解決しない限り、前には進めません。じゃあ、他の話を聞くのは意味がないのかと言うと、そうではない。それは、どんな話を聞いても、心に引っかかるところはいつも同じだからです。私たちは自惚れているから、一つの話を聞くと、「これはよく分かった。今度は別の話が聞きたい。」と思います。でも、寺は照る照る道々曇るで、しばらくすると、何を聞いたのか分からなくなる。つまり、元の場所に戻っている。そこでまた仏法を聞くと、同じ場所が引っかかる。「そうだ。そうだ。私はこれが問題だったのだ。何で忘れていたのだろう。」と、その時は思う。でも、また、しばらくすると、元の場所に戻っている。このようなことを何度も繰り返すと、「これでは、どんなに聞いても意味がないのではないか。一生懸命聞いても、また、元の場所に戻ってしまうなら、聞かない方がいいのではないか」とまで思ってしまう。この聞かない方がいいのではないかと思う心も、また自惚れ心。自分は聞いたら分かる。理解したら前に進めるものだと自惚れているから、こんな心が起きる。だから、何度聞いても前に進めず、元に戻ると、こんな自分はどれだけ聞いても意味がないのではないかと思ってしまうのです。でも、元に戻るのが当たり前なのです。元に戻るのは自分だけじゃない。みんなもそう。人間はそんなに簡単には変わらない。だから、同じ話を聞けと言われるのです。どんなに一生懸命聞いたとしても、必死に頑張ったとしても、人間が変わるには時間がかかる。そんな自分を待てないから、“どんなに聞いても意味なんかない”と思ってしまうのです。だから、同じ話を聞いてゆくことで、まず自分を待つことを覚えてゆく。自分はそんなにすぐには変わらない。責めたって早くなる訳ではない。しようがない。自分が変わるまでどこどこまでも付き合ってゆこうかと思うようになってゆくのです。仏法を聞いて、なかなか自分が変わらないからと言って、「もう、どれだけ聞いても意味がない。」と思うのは、自分を待つことができずに投げ出しているから。ここで待つとは自分が変わるまで待つこと。自分が変わるまで待ってあげることができないから、思い通りにならないと、自分さえも見捨てようとする。「もう、どうでもいいや。」と思うのは、その心。もう、こんな自分と付き合っておれないから、自分と向き合うことから逃げて、投げ出そうとする。こんな私だからこそ、同じ話を聞いてゆかなければならないのです。始めから自分のことを待ってあげることのできる気の長い人なんていません。誰だって、最初は自分に対しても、他人に対しても、待つことができずに、腹を立て、投げ出そうとする人たちばかり。でも投げ出しても問題は変わらないから、聴聞すると同じ場所に戻る。もうこんな自分嫌だと言っても、自分で自分を捨てることはできないから、仏法を聞くと、また同じ問題にぶつかる。そうやって、嫌々ながらも、待つことを覚えてゆくのです。つまり、本当に待てないのは、他人に対してではなく、自分に対して。思い通りに動いてくれない自分が許せないのであり、待てないのです。だから、自分を待ってあげることができれば、他人も待てる。「この人はこの人なんだな」と受け止めてあげることができるのです。
仏教でタネを蒔くとは、待つことなのです。
コメント