御一代記聞書 言語道断の悪

「信をとらぬによりて、わろきぞ。ただ、信をとれ」と、仰せられ候う。善知識の、「わろし」と、仰せられけるは、信のなきことを、「わろき」と、仰せらるるなり。しかれば、前々住上人、ある人を、「言語道断、わろき」と、仰せられ候うところに、その人、申され候う。「何事も、御意のごとくと存じ候う」と、申され候えば、仰せられ候う。「ふつとわろきなり。信のなきはわろくはなきか」と、仰せられ候うと云々(186)
「善知識を心から信じることができないから、苦しみから離れることができないのだ。ただ善知識を心から信じなさい」と仰せられた。善知識が「悪い」と言われることは、善知識を心から信じられないことが「悪い」ことなのだ。だから、蓮如上人もある人に対して、「言語道断の悪だ」と注意されたことに対して、その人が「私は何事、仰せの通りに実践しています。」と答えたことがあった時に、それに対して、蓮如上人は「お前は何事も仰せの通りに従っていると言うが、それはすべてお前の計らいが入ったものだ。だから、仰せの通りに従っているつもりで仰せに従っていないのだ」と言われたのです。
(解説)
「信をとらぬよりて悪きぞ。ただ信をとれ」
ここで、信とは信心のこと。この場合の信心とは、善知識を心から信じることです。善知識を心から信じることができないから悪い。この場合、悪いとは、そのために苦しみから離れることができないということ。つまり、善知識を心から信じることができないから、どんなに頑張っても、苦しみから離れることができない。だから、善知識のことを心から信じることができないからこそ、信じて従いなさい、ということが、「信をとらぬによりて悪きぞ。ただ信をとれ」という意味。では、どうして善知識を心から信じることができないのでしょうか。なぜなら善知識は私たちにとって都合の悪いことを言うから。それは、“人間は必ず死ぬ”ということです。善知識は死を大前提にしいて物事を考えている。それに対して、私たちは死なないことを大前提にして物事を考えている。だから。善知識の言うことが信じられないのです。では、死を大前提にして考えるとはどういうことか?人間は必ず死ぬ。そして、死ぬ時は何一つ持ってゆくことはできない。持って行けるのは、己の業だけ。それ以外の自分の執着しているものは何一つ持ってゆくことはできない。この厳粛な事実を受け止めることです。
私たちは思い通りに物事が進んだら幸せになれると思っています。この場合、思い通りに進むとは、無常にぶつかって、我が崩されるということ。もし、これだけは間違いないと思っていたものが崩されたならば、不安になるし、苦しいこと。だから、私たちは無常が来なければ安心して生きてゆけると思って、思い通りに物事が進めば幸せになれると思っている。でも、どんなに人生が思い通りに進んだとしても、最後には死が待っている。死とは信じていたものすべてに裏切られる時。執着しているものすべてと別れて、丸裸になってたった一人で旅立ってゆかなければならない時でもあります。たった一つのことでさえ思い通りにならなかったら、不安になって苦しむ私たちが、すべてのものから裏切られるのが、“死”。その心の衝撃は如何ほどのものなのでしょうか。これを後生の一大事と言われ、この死という大問題を解決することが、仏教の目的なのです。だから、生きている時、少しでも無常を経験しなければならない。無常とは思い通りにならないことにぶつかること。そうやって、思い通りにならないことにぶつかって、不安になって、苦しんで、それでも乗り越えて、少しでも無常を受け入れてゆかないといけないのです。そうしなければ、とても死という大問題を解決することはできない。だから、善知識は思い通りにならないことを勧められる。ところが、私たちは死ぬと思っていない。死ぬと思っていないから、思い通りになったら、幸せになれるという迷いをカンカンに信じています。だから、無常という都合の悪い真実を見せつける善知識の教えを信じることができない。そのため善知識が勧められたことに対して、「どうしてこんなことを勧められるのか。こんなことをしたら、苦しくなるではないか。それよりも、もっと楽になる方法を教えて欲しい」と思ってしまうのです。でも、そうやって、人生思い通りに生きることが善いことだと思うのは、目先のことしか見えてないし、考えていないから。その先に待っている死のことなんて、微塵も考えていないから思えること。そんな人はたとえ自分は死んでゆくのだなと考えても、その死によって何が起きるか、何を失うか考えようとはしません。それは考えるのが怖いから。だから、死は自分とは関係のない遠い先のことだと思って、みんな生きているのです。では、考えるのが怖いからと言って、考えないようにしていたら、死はやって来ないのでしょうか。この地球上には毎日毎日、多くの人が死んでいます。でも、その人たちの中の一人でも自分の死を考えていた人なんかいません。たとえ癌を宣告されて、余命幾ばくもないと知っていても、明日は生きているだろう。あと一息は吸えるだろうと思っていたはずです。でも、そんな私たちの儚い願いはもろくも崩れ去り、無常はいとも簡単に私の命を奪ってゆくのです。仏教に、“出息入息不待命終”という言葉がありますが、これは出息とは吐く息。入息とは吸う息。ですから、出息入息とは、呼吸のこと。私たちは当たり前のように、吐いたら吸える。吸ったら吐けると思っていますが、その吐いた息が吸えない時。吸った息が吐き出せない時が必ず来るのです。その時、どんなに待ってくれ、あとちょっと生かしてくれと泣き叫んだとしても、死は待ってはくれないのです。これが“不待命終”ということ。だから、死ぬとは思えない私に突然やってくるものなのです。
死ぬまで死なないと思っているものが私たち。臨終まで何とかなると思っているものが私たち。でも、そうやって、死を考えることを先送りにしている間に、本当に死がやってくる。そのとき、うろたえて、何とかしようと思っても手遅れなのです。仏教は死ぬと思っていないからこそ、聞かなければならないものであり、死ぬと思えるようになる日なんて永遠に来ないのです。でも、このように言われても私たちはなかなか分からないものだから、善知識は死を大前提にして教えを説かれるのです。死ぬと思えないものに死ぬと思えるようになってから教えを説いていては手遅れなのです。死ぬと思えないからこそ、死を大前提にして、教えを説かなければ、臨終までに間に合わないのです。だからこそ、善知識の教えは信じられない。信じられる訳がないのです。それは、私たちは全く自分が死ぬとは思っていないから。それでも、教えを聞いてゆくことによって、少しずつ我が身の死を受け入れ善知識が信じられるようになってゆく。だから、死ぬと思えないからこそ、善知識を信じられないからこそ、仏法を聞かなければならないのです。そうやって、仏法を聞いてゆくことによって“私も死ぬのだな”と知らされてゆく。それは、頭で分かったということでなく、心が死を受け入れてゆくいうこと。では、死を受け入れると何が変わるか。それは執着が段々と少なくなる。執着とはこだわり。“このようにしなければならない”とか、“この時はこうするのが正しい”とか正邪を問題にする心。また、人や物に対して執着する心。私たちは自分は死なないと思っているから、一度手に入れたら、永遠に離れることなんてないと思って執着する。でも、どんなに死なないと思っていても、この世に死なない人はいない。だから、すべてのものは一時、私の所にやって来ている借り物に過ぎない。借り物だから、最後は返さないといけない。その返す時が、自分が死ぬ時。それまで私は預かっているだけ。この世に本当に自分のものになるものは何一つない。この世で手に入れたものすべてを置いて、業を抱えて死んでゆかなければならない。でも、全人類はその真実を知らず、一生涯をかけて最後には置いてゆかなければならない宝や財産をかき集める為に、数え切れないほどの罪悪を犯し、その罪悪を全部持って死んでゆかなければならないのです。
こんな最期にならない為に仏法は聞かなければならないのです。それなのに、善知識を信じられず、教えを真面目に実践しようとしないことは、たった一つの助かる道を自らぶち壊しているような行為。だから、蓮如上人は“悪きぞ。ただ信を取れ”と言われているのです。信を取れとは、善知識を信じることができないからこそ、信じなさい、ということ。それは、私たちの頭の方が狂っているから。仏教ではこれを顛倒と言われ、真理と逆さまなことを考えているものが私たちだから、信じることができなくても、信じて教えに従ってゆかなければならないのです。善知識が「悪い」と言われることは、善知識の教えを信じてくれないことが悪いと言われているのです。ここで悪いとは、単に悪いことだから、やるなという意味ではなく、こんな考えを持っているから救われない、助からないのだということ。こんな考えとは、自分が納得したことしか従わないという心。逆に言うと、納得しなければ従えないという心です。もちろん、善知識の教えすべてが納得できないという訳ではない。それどころか、ほとんどが納得できる。でも、その中にどうしても納得できない所がある。それが自分が執着している所。そして、その執着は自分が死ぬとは思えない所から起きている。だから、死ぬと思えない私たちが、執着して納得できない所を納得するなんて、とてもできない。でも、それは善知識の教えが間違っているのではなく、私の頭が狂っているだけ。だから、納得できなくても従わなくていけないのです。そうやって、納得できなくても、教えに従うことによって、少しずつ我が身の死を受け入れることができるのです。だから、蓮如上人は、ある人に対して、「言語道断の悪いことだ」と注意されたことがあった時に、その人が「私は今まで仰せの如く従っています。」と答えたことに対して、「お前は何事も仰せの通りに従っていると言うが、それはすべてお前の計らいが入ったものだ。だから、仰せの通りに従っているつもりで、仰せに従ってないのだ」と言われたのです。でも、この方は仰せの通りに従っていると思っています。では、本当の意味で教えに従うとはどういうことなのでしょうか。それは私たちはどんなに教えに従おうと思っても、自分の都合の良く教えを聞いてしまうものであるということを知ることから始まります。なぜ都合良く聞いてしまうのかと言えば、死ぬと思いたくないから。だから、無意識のうちに無常から逃げるように聞いてしまう。その為に教えに従っているつもりで、従ってないのです。しかも、教えに従っていない人ほど、自分は教えに従っていると自惚れている。だから、蓮如上人は、そんな自惚れている人に対して、“言語道断の悪だ”と注意されたのです。このことから、私たちはどんなに教えを正しく聞いたとしても、自分の都合良く教えをねじ曲げてしまうものだということを知らなければならない。じゃあ、どうしたらいいか、どうしたら正しく教えが聞けるか。それは善知識から何度も叱って頂く以外にはないのです。そうやって、叱って頂くことによって、少しずつ自分の聞き誤りに気付き、自分の間違いを正してゆくことができるのです。

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