御一代記聞書 物を言え

蓮如上人仰せられ候、「物を言え、物を言え」と仰せられ候。「物を言わぬ者は恐ろしき」と仰せられ候。「信・不信ともにただ物を言え」と仰せられ候。「物を申せば心底も聞こえ、また人にも直さるるなり。ただ物を申せ」と仰せられ候。
蓮如上人がある時、このように仰有った。
「自分の思っていることを心の中に溜めておかないで話しなさい。仏法を聞いていても、黙って聞いているばかりで、自分の思っていることを話さない人は何を考えているのか分からないので、空恐ろしく感じる。阿弥陀仏に救われた人もまだ救われてない人も関係なく、自分の思っていることを正直に話したらいい。そうやって話すことによって、自分が何を思っているのかということも、みんなに分かってもらえるし、他の人たちがどう思って聞いているのかも分かる。そして、自分の理解の間違いも正してもらうことができる。だから、積極的に話してゆきなさい。」
解説
ここで蓮如上人が、「自分の思っていることを話してゆきなさい」と言われたのは、聴聞の時にどのように聞くかを教えられたものです。つまり、仏法を聞くときは、無言で善知識の話されることに耳を傾けるのではなく。疑問に思ったことは積極的に質問してゆきなさいと教えられているのです。
こんなことを言うと、「他の人に迷惑じゃないか」とか、「話の腰を折ってしまうのではないか」と思う人もあるかも知れません。しかし、私たちは話を聞く為に聴聞に来ているのではなく、聴聞を通して自分の苦しみを抜いてもらう為に聞きに来ているのです。だから、苦しみを抱えていても、それを吐き出すことなく、黙っていたら、苦しみがいつまでも腹の中に残って消えることはありません。そうしたらせっかく、時間を割いて聞きにきた意味がないのです。
ただ聞いていたら苦しみが抜ける訳ではない。積極的に疑問に思ったことを質問してゆくことによって苦しみが吐き出され、心が楽になってゆくのです。それが何もしゃべらず、黙って聞いているだけだったら、この人は一体何の目的で聴聞に来たのか、空恐ろしく感じる。色々思っていることがあるならば、黙ってないで聞いて欲しい。
聴聞会場には話を聞きに行く為に行く所ではなく、話に参加する所。だから、仏法の話を通して、みんなが自分の思っていることを話してゆくことによって、自分の仏法の理解も分かるし、おかしな所があったら、直してもらえる。いくら黙って聞いていても、誤解しているところは正されることはありません。自分の思っていることを話してゆくことによって、自分の理解の間違いを正してもらう場が聴聞です。
でも、心の中で色々思っていることはあるのに、それを口に出して聞くことができないのはどうしてでしょうか?
それは批判されるのが怖いから。「こんなことも分かっていないのか。」と自分の人格まで否定されそうで聞くことができないのです。このように思うのは日頃、正しいところに立って、間違いを犯した相手を責めているから。それが鏡のように跳ね返って、自分の間違いが見つかると責められるように感じて、自分の思っていることが素直に聞けないのです。
聴聞とは苦しみを抜いてもらう場であると同時に、自分の理解の間違いを正してもらう場でもあります。そこで自分の間違いを指摘されたくないから、黙っていたら、自分の苦しみを抜いてもらうこともできないし、自分の誤解も正されることもない。これでは何の為に聴聞に来ているか分かりません。
だから、聴聞のとき、自分の思っていることを積極的に聞いてゆく為にも、日頃から他人の欠点を指摘したり、責めることはせず、許してゆくことによって、自分の思っていることを気持ち良く話してゆくことができるようになってゆきます。そうすることによって心の中に抱えているものを出すことができ、心が楽になってゆくのです。

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