御一代記聞書 時節到来

「時節到来と云うこと。用心をもし、そのうえに事の出で来候うを、時節到来とは云うべし。無用心にて事の出で来候うを、時節到来とはいわぬ事なり。聴聞を心がけてのうえの、宿善・無宿善とも云う事なり。ただ、信心は、きくにきわまることなる」由、仰せの由に候う。(106)
時節到来ということは、用心して仏法を求めた人に言うのであって、たとえ信心を頂いたとしても無用心の人には言わないのである。そうやって用心して聴聞に心がけた上で、救われるとか、救われないということがある。現実から逃げない為の唯一の方法は聴聞に極まることなのである。
解説
時節到来とは、つぼみが段々と膨らみ、花開くように、他力の信心の花が開く時。つまり、阿弥陀仏に救われることを時節到来とここでは言います。
では、時節到来、阿弥陀仏に救われるということはとんな人にあるかと言えば、用心して仏法を求めた人にあるのだと教えられています。
用心とは、心を働かせること。仏法は何となく聞いていればいいのではない。何となく聞いておれるのは、現実生活と仏法が切り離されているから。
仏法とは現実の苦しみを抜いてゆく教え。現実生活を通して仏法で教えられることが分かってくる。現実と向き合わないと仏法は分からない。単なるお話になってしまう。
でも、現実と向き合うと言っても、それが心が強い人だけではないか。私のような心の弱い人は求めてゆくことなんてできないと諦めている人もいます。では、仏法を求めてゆく上で、心の強さは関係あるのでしょうか?
それについて仏法ではとのように教えられているのでしょうか。
それについて、仏法では二河白道の譬で白道四五寸と心が強い人なんていない。みんな弱いのだ、と教えられています。いつ折れてしまうか分からない。私が特別弱いという訳ではない。他の人を見て、強そうに見えるのは、それは自力が強いだけ。そんな一見強そうに見える自力も、現実と向き合うと粉々に砕け散ってしまう。そして、弱い心が見えてくる。
こんな弱い心しかない者が二河白道を一歩一歩進んでゆくのだと聞くと、「そうかな」と思いながら、現実と向き合ってゆこうと思う。これが“用心”をもして仏法を聞いてゆくということ。現実と向き合うと、世の中は無常。思い通りにならないことばかり。そのたびに心は傷ついてゆく。こんな心の弱い自分は本当に求めてゆくことができるのだろうかと諦めそうになる。でも、そんな弱い心しかないものだからこそ、仏法を聞く。そうすれば、その時だけでも、苦しくても現実と向き合ってゆこうと思える。でも、そうやって一歩進むと、また苦しみとぶつかって心が折れる。苦しみの余り逃げ出したくなる。これが二河白道であり、白道四五寸と言うことです。
次に無用心とは、現実から逃げて、逃げて、仏法さえ聞いていれば助かるのだと思って聞いていることを言います。そんな気持ちで仏法を聞いていても何も分かりません。
仏法を聞いてゆく道とは、現実と向き合おうとして、悩んで苦しんで、それでもまた、逃げてしまって、自分に嫌悪感を感じて、落ち込んで、死にたくなって、それでも死ねなくて……。これがありのままの人間。
現実を目の前にして、もう自分の力ではどうにもならない。これを親鸞聖人は“いずれの行も及び難き身”と言われている。二河を目の前にして、弱い心が吹き上がり、自分の力ではどうにもならないからこそ、仏法しかないと心が一つになるのです。
それを仏法を聞くのではなく、“ああすれば、こうすれば”と思っているのは、自分の力で何とかすれば何とかなると思っているから。それは自力の心。だから、仏法に疎かになるのです。
善知識でさえ常に仏法に触れなければと思っているのに、自分の力で何とかなる、何とか心を保っておれる、心が崩れないでおれる。こう思っているのは愚の骨頂。余程、自分に自信があるとしか思えない。私は自信がないと言いながら、自分の力で何とかなると思っている。仏法に触れていないのに求めてゆける訳がない。それが心が弱いというならば、それは当たり前。みんなそう。善知識もそう。強そうに見えるのは己の弱さを自覚しているから。だから、倒れる前に愚痴を言う、泣き言を言う。常に仏法に触れている。善知識ほど仏法に触れないといけない。それは色々な人から苦しみを受け取るのが役目だから。常に仏法に触れて心を浄化しなければ、すぐに苦しみで身動きが取れなくなる。己を知っているからこそ、心を元気に保つことができる。だから、そうやって聴聞に心がけての上で、救われるとか、救われないとか、ということがある。現実から逃げない為の唯一の方法は聴聞に極まることなのである。

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