蓮如上人、仰せられ候う。「仏法のうえには、毎事に付きて、空おそろしき事に存じ候うべく候う。ただ、よろずに付きて、油断あるまじきこと、と存じ候え」の由、折々に仰せられしと云々 「仏法には、明日と申す事、あるまじく候う。仏法の事は、いそげ、いそげ」と、仰せられたり。(103)
蓮如上人は折に触れ、縁に触れ、このように仰った。
「仏法に教えられていることは、どんなことであっても、そこには真実が教えられている。dあから、どれ一つとっても軽く受け流していいものはない。どんな教えであったとしても、油断して聞いておれるものなどない。」
また、「仏法には明日はない。仏法のことは急げ、急げ」とも仰っていた。
(解説)
仏法に明日聞けばいいという教えなどない。仏法のご縁は何よりも優先して聞きなさい、と蓮如上人が教えられた御言葉です。
それはなぜかというと、私の命に明日というものはないからです。
親鸞聖人が九歳で出家された時、
“明日ありと思う心の仇桜 夜半に嵐の吹かぬものかは”
このように詠まれた。
みんな明日はある。明日も生きておれる。死ぬのはまだまだまだ先だと思っている。でも、現実には毎日、雨が降るように人が亡くなっている。その名あの誰か一人でも「明日は自分が死ぬ番だ」と思って泣き泣き過ごした人がいるでしょうか。
そんな人は一人もいない。みんな明日も生きておれると思って、昨日と同じように今日も過ごしてきた人ばかりです。でお、そんな人が今はもうこの世にはいない。
“仏法に明日はない”
私たちは自分が死ぬなんて思っていないので、仏法のご縁があっても、何か用事が入ったら、「じゃあ、また今度聞けばいいか。」と後回しにしてしまう。でも、その明日はないかも知れない。
この親鸞聖人の歌では、人の命を桜の花になぞらえて、桜が満開に咲いているので、明日もここに来たら満開の桜が見れるかと思って、来てみると、夜中に吹いた一陣の嵐によって、桜が散ってしまい、見ることができないことがある。ちょうどそれと同じように人間の命も桜の花のように儚く散ってゆきます。しかし、私たちは死ぬが死ぬまで誰も自分が死ぬなんて思っていません。でも、そんな死ぬとは思っていない人に突然襲ってくるのが、無常の嵐。この無常の嵐がやってきたならば、「どんなに待ってくれ。あとちょっとだけ生かしてくれ」と懇願したとしても死は待ってくれません。平凡な日常のその一瞬先に死という闇がある。私たちの生は死と隣り合わせなのです。でも、誰もそのことに気付かず、自分が死ぬなんてないのだと思って安心しきっています。本当に死がやってくるまで、その事実に気付くことはありません。
でも、それは若い人のことだ。歳をとったら死ぬと思えるようになるのではないか。そう思う人もいるでしょう。でも、どんなに歳をとったとしても、あと一息吸える。そう思うものです。
お経に“出息入息不待命終”というお言葉があります。
出息とは吐いた息。入息とは吸う息。この吐いた息が吸えなかったら、吸った息が吐き出せなかったら、“待ったなし”で命が終わる。
それが善汁の真実。だから、空恐ろしいのです。
死ぬと思っていない人に突然死が襲ってくる。死ぬと思っていないから、何も準備をしていない。そんな無防備で安心しきっている心に容赦なく死は襲いかかる。その衝撃は計り知れません。だから、“急げ、急げ”と言われているのです。
明日とは言えない。今日、今、聞かなければならないものが仏法なのです。
死ぬとは思えないから、まだまだ大乗だと思うから、急がねばならないのです。
“心こそ心迷わす心なれ 心に心 心許すな”
私のこころに任せていたら、そのまま臨終を迎えてゆきます。この心と戦って、まだまだ死なないと思う心に任せず、急げ急げと聞いてゆかなければならないものが仏法なのです。
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